後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

あっち側とかこっち側とか

 日本テレビでやっている『午前0時の森』という番組があって、それの特に火曜日(月曜日と火曜日がある)が好きで毎週見ていた。その番組が今年の6月に番組名が『おかえり、こっち側の集い』と変わってしまい、そこからすっかり見なくなってしまった。これはもう完全に自分の好みの問題なわけで、ただの食わず嫌いなわけで、もしかしたらちゃんと面白いのかもしれないけれど、でもやっぱりタイトルがどうも合わなくて見なくなってしまった。

 あっち側とかこっち側とか、もういいじゃないか。って思うのは、自分があっち側とかこっち側とかそういうことでもなくて、そんな自覚はなくて、そもそも人間と人間の間にラインを引く行為自体が、ちょっともう受け付けなくなってしまったのだろうな。と分析している。考えてみれば、あっち側とかこっち側とか人間が人間をカテゴライズする事自体が、何目線なんだって思う。例えば仲の良い(と自分が思っている)人がいて、そいつに「お前は俺とは違うから」って言われたら、「あぁ……」と思ってしまうだろう。悲しいとか寂しいとかじゃなくて「あぁ……」って感じ。あなたはそうやって人をカテゴライズする人だったんですねっていう、ちょっと残念な気持ち。だけどもその一方で、それじゃあ自分はそういうことをしない、品行方正で慈愛に満ちた人間かと言われたらそんなわけもなくて、やっぱりアイデアや価値観の近い人間に安心するし、そうじゃない人間を共通の敵(とまでは言わなくても「解り合えない人間」ぐらいか)のフォルダに入れることでこれまた安心もするのだろう。きっとそれが人間の本質なのだろう。そうやって仲間を作り集団を作り集落を作り国を作ってきたのが人間の歴史でもあるのだろうし。あっぱれだぜ人類。

 あともうひとつ。そんなに、パキッと分けられるものでもないだろう人間って。二元論で語れるものではなくて、もっと流動的だしグラデーションの中にいるものなのだろうと思う。ある集団の中ではこっち側な人間が、別のグループではあっち側の振る舞いをすることなんて普通にあるわけで(そういうのを「分人」って言うらしい)、また「あの人のこういうところは自分と似ているけど、ああいうところは全く合わない」と思うこともありふれたことだろう。その日によって人類みんな仲間ラブ&ピースとぬるいことを思うこともあれば、世の中すべて鬱陶しいな全員死ねと思うことだってあるわけで、その時折で意見や立ち位置を変えたりするのがむしろ人間らしさだったりもする。「あの人はこっち側」と決めてしまうから、後になって「裏切られた」なんて傲慢なことを思ってしまうのだ。

 でもまぁ曖昧なままに「あなたはあなた、私は私。どっち側とかないよね」だとあまりにも当たり前すぎて番組としてなんのフックにならないか。だから、そういう番組タイトル(『おかえり、こっち側の集い』)で、そういうエンタメにしたのかもしれないな(勝手に想像で書いているし皆目見当違いかもしれないです)。

 なんでこんなことを書いたかというと、その『おかえり、こっち側の集い』に日向坂46の松田好花さんが出演する回が先週あって、見ようかどうか悩んでいるうちに視聴期限を過ぎて見られなくなってしまったからです。いや、うだうだ言ってなくて見りゃ良かった。めちゃくちゃ後悔してる。