後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

明日のたりないふたり

 6月2日。火曜日。 すっかり6月に入り今日も暖かい、というかすでに暑ぃ一日でした。半袖で過ごしております。週末にはタワレコに行って『君しか勝たん』を買って発売初週の売上に微力ながら貢献したり、火曜日には初めてオンラインで講義をしたりと、バタバタとした生活を送っております。初のオンライン講義といっても、ややこしそうな設定は全てやってもらったので通常の対面講義と変わらなかったですね。よゆーです。ただ、対面の講義の時にはパワポのスライドをスクリーンに投影してその周りを歩きながら喋っているので、カメラから外れないようにその場に留まっておく、というのが難しかったです。なんかじっとしてられないのですよね。

 さて、先日5月31日に配信ライブで行われた『明日のたりないふたり』をようやく見逃し配信で観ることができました。リアルタイムではその時間(18時半スタート)に帰ってこられなかったので、アーカイブを残してくれてて大変助かりました。

 「たりないふたり」というのは南海キャンディーズの山里さんとオードリーの若林さん二人によるユニットで、もともとは「潜在異色」というお笑いライブの中で生まれ、その後独立して番組やライブになっていったユニットです。これまでも『たりないふたり』や『もっとたりないふたり』が放送されたり、2019年には『さよならたりないふたり』で横浜でライブが開催されました(私もライブビューイングで観ました)。初期の頃は「飲み会が苦手」だとか「人とのコミュニケーションが苦手」だとか、いわゆる人として「足りていない」部分をテーマにした漫才であったりトークが行われていました。私は山里さんと若林さん二人からなるこのユニットがめちゃくちゃ好きでずっとファンだったのですが、そんな結成して12年となる「たりないふたり」がついに今回の『明日のたりないふたり』をもって解散となるということで、色んな感情を持ちながら恐る恐る観ました。

 で、そんなこのライブですが、もうね、凄まじかったです。めちゃくちゃ笑っていたのに、いつの間にか目頭真っ赤になっていました。ステージ上にはセンターマイク1本だけ置いてあるだけです。あとはひたすら2時間近く二人が漫才だけを繰り広げていくのですが、その中でもちろんたくさん笑わせてもらって、そしてそれを感動にまで持っていかれるというのは、ちょっとエゲツない体験でした。きっとそれは、その漫才の中でのお二人の言葉のやりとりが、血の通った叫びのような生の言葉だったからなのでしょう。生き様をさらけ出す行為が冷笑される時代に、生の言葉をお互い本気でぶつけ合う二人の姿が最高にカッコよかったです。

 「たりないふたり」が結成されて12年が経ち、その間にお二人ともMCを任せられるようになったり、プライベートでも結婚されたりと、様々な変化がありました。でも、世間からは「もうたりてるじゃねぇか」なんて言われるようになった今となっても、変わらない部分を持ち続けていたり、人に嫉妬する部分もあって、自身のスタンスに悩んだり、諦めたモノや諦められなかったりするモノがあって、そういうぐちゃぐちゃとしたモノをすべて吐き出すような漫才でした。圧巻でした。具体的な内容はネタバレになるので書けないですが、めちゃくちゃ面白い漫才なのにも関わらず、漫才の中でお互いに生の言葉をぶつけ合って傷だらけになって、でもその傷を見せつけることでさらに笑いを生み出してて、私はボロボロ泣きながら笑っていました。ほんとね、わけわかんねぇ感情。

 そんなわけで帰宅してから夜遅くに『明日のたりないふたり』を視聴したのですが、観終わってからも脳が熱くなって寝るに寝られなかったので散歩に出かけたのです。で、トボトボと歩いていたのですが、道すがらやっぱりメソメソしてきて「あ、やばい泣く」と思って公園に入りました。深夜1時頃にメソメソしながらベンチに座っている男、完全にやべー奴ですね。通報案件。

 ベンチに座りながら「たりない」ってなんなんだろうな、と1時間くらい考えていました(やっぱり通報案件ですね。あはは)。私も人とコミュニケーションをとるのが苦手だったり、自分に自信がなかったりするのですが、そういう生き方が社会に向いていないということも徐々に分かってくる年齢になりつつあります。もしかしたら足りている人ってのはその気づきも早いのかもしれませんね。社会を生きていくのに、たりてなさは圧倒的に足枷です。飲み会だって行った方が良いし、何をするにも自信のある人間のほうが人望も厚いことでしょう。なんせ説得力が違う。

 だから、社会に溶け込むためには、たりている人間にならなきゃいけないのです。しかし悲しいことに、そう簡単になろうと思ってなれるわけでもありません。それは自分が一番わかっていることです。だからせめて、自己暗示して自分がたりている人間だと思い込ませ、たりている人間に擬態するしかないのです。擬態して生きていくのが唯一の方法なのです。ですが、そうすると今度はその擬態すること自体がしんどくなり、角度が変わっただけで生きづらさは変わってないことにも気づきだします。愕然としますね。もう八方塞がりです。結局のところ「たりてなさ」って、捨てようと思っていても捨てられないままですし、もしかしたら心の奥底では捨てたくないものなのかもしれません。たりてないからこそ、たりている人間に嫉妬して憧れて努力できるのかもしれないですし。でも、やっぱりその自身のたりてなさに凹んだりもして。フラフラしてばかりで、時々そんなことを思って泣きそうになります。

 そんな己の「たりない」を肯定してくれるのが「たりないふたり」でした。「俺たちの方がたりてねぇぜ」と腕をまくってその傷を見せてくれて、「たりないままでも生きていけるんだぜ」と笑い飛ばしてくれるような存在でした。もう本当に解散しちゃうんだなーと思うと、わけわかんない感情がとめどなく溢れてきます。そんな今日このごろです。早朝に何書いてんだって話でございました。

 

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