後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

好きじゃなくなることの恐ろしさ

 好きだったはずのグループや歌手や番組やその他コンテンツを、ある日、急にそうでもなく感じてしまうことが何度かあった。それまでは普通に番組を楽しみにしたり、ライブやイベントにも参加していたはずなのに、それがある日ぷつんと、糸が切れたように何も感じなくなってしまうのだ。だいたい好きになって3年ぐらいでそうなってしまうことが経験上多い。もちろん、3年を超えて好きであり続けるアーティストやコンテンツもあるのだけれども、やっぱりそれは稀有なことで、だいたいはなんとなく離れていってしまうのだ。

 別にその対象が嫌いになったわけでは全くなく、原因は100%その対象を愛せなくなった自分にある。しかし一度そうなってしまうと、それまで愛していた自分のことすらも「なんであれほど熱を向けていられたのか?」と疑い始めてしまう。きっとそういう状態を「飽きた」と呼ぶのかもしれない。だけれど、自分で「飽きた」ことを認めてしまうことほど恐ろしいことはない。アイドルにしろラジオにしろゲームにしろ、あるいは二次元のキャラクタや声優さんにしろ、何かに熱を注いで好きになるということは、部分的にも自分の生きている世界にある何かを好きになれるということだ。嫌いで埋め尽くされた世界を生きていくよりはずっと良い状態だと言えるし、それだけで生きていく理由になり得る。何かを愛することは世界を肯定することにつながるのだ。

 だからこそ、愛せなくなったということは、その世界を部分的に殺してしまうことと同義だ。そしてそのコンテンツを愛していた自分を殺すことでもある。これが恐ろしい。めちゃくちゃ怖い。過去、その対象のおかげで生きる希望みたいなぼんやりとした何かを与えられたはずなのに、それを自分自身で殺すのは、殺人であり自殺でもある。あまりに残酷な行為ではないか。きっとそのコンテンツ側からしたら、ただ顧客が一人減っただけかもしれないけれど、こっちからしたら罪悪感でいっぱいになってしまう。しかもその罪悪感はその後も傷として残り続ける。一種の自傷行為とも呼べるかもしれない。そしてその後は逃げるようにその対象から距離をとってできるだけ目に入れないようにするのだ。目に入ってしまうと、その当時の好きだった自分が、殺したはずの自分が亡霊のように現れ、「お前はもう好きじゃないんだろ?」と睨みつけてくる。被害妄想に過ぎないのかもしれないけれど、好きじゃなくなってしまう度に、傷を負いつづけるのだ。

 そんな対象が過去にいくつもあった。もしかしたら、今愛しているコンテンツも、ある日急にそうでもなくなって、傷になってしまう日が来るかもしれない。その日のことを想像すると震えるほど恐ろしい。だがせめて、だからこそせめて、そうなるまでは愛し続けたいと思うのだ。めいいっぱい好きでいたいし、ライブに行ってエモーショナルな気持ちになりたいし、その対象の人たちの喜びをまるで自分のことのように一緒に喜びたいのだ。その時の自分は好きだから。好きじゃなくなってしまうその日まで。

 

 そんなことをぼんやりと考えていた今日一日です。4連休に入ったようですが、生活はほとんど変わりません。月〜水はそこそこ忙しく、講義をしたり農場で作業をしたり、また講義をしたりと頭と体をフルで使い果たした三日間でした。ゲボ吐きそうなほど疲れ果てました。4連休もステイホームあるいはステイラボなことでしょう。