後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

エドガー曰く、世界は

 久しぶりにめちゃくちゃ面白い本を読んだ。いや、おそらくどんな本でも、読んだ後はそれなりに充実感と面白さを感じる方なんだけど(きっと読書には「読む」という自発的行為が必要だから)、その上で、めちゃくちゃ面白かった。

 

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 それが、樋口恭介氏の『構造素子』だ。もともと第5回ハヤカワSFコンテストにて大賞を受賞し、2017年に単行本が発行されたこの作品であるが、本当に、なぜ単行本発売日に手を出さなかったのか悔やまれるくらい、それくらいめちゃくちゃ面白かった。それは、きっと、ハードカバーにはちょっとした威圧感みたいなものを感じていたからだろう。特にハードカバーのSFはいかつい。読み始める前に力をためて「ふんっ!」と息を止める必要があるような感覚がある。だからもともとハードカバーは手を出しにくかったのだと思う。この『構造素子』もそう(そもそもタイトルがちょっといかついし)。それが、つい先日文庫化されたもんだから、「ほぉ、ちょっと読んでみるか」という心境に至ったわけだ(何を偉そうに)。

 いやはや、それにしても、初めて樋口氏の受賞作を読んだのだが(色んなところに短編は寄稿されているのでちょこちょこ読んだことはある)、めちゃくちゃ良かった。本当に、すげー面白かった(面白い作品に触れた時に現れる語彙力がバカになるアレ)。

 しかしこれほど感想文に困る作品もない。それが読んでまず感じたことだ。おそらく、小説という形式で書かれているものと読者との関係性に焦点を当てたメタ的な構造の解釈を含む作品であるのは確かなんだろうけれども、だからこそ「感想」ってなると難しい。読者の脳みその数だけ物語は展開され、生成され、構築されていく。そして感想は読者の脳みその数だけ増殖していく(そもそもが物語ってそういうものなんだろう)。なので、感想を書いたところで、それが読んだ誰にとってもそう感じるかと思うと、そうとは限らない。いや、そうでない場合の方が圧倒的に多いだろう。なんとも感想文ってのは無意味で無粋で無価値なものだろうか。でもそれが言葉の持つ性質のひとつであるともいえる。言葉は文章は物語は、それを記述した意思や感情や思考とは別の場所にある。どれだけ言葉を丁寧に紡いだところで、その意思をすべて表現できるわけではなく、どうしても書き手と読み手との間に齟齬が生まれてしまう。そんな時、我々は言葉の無力さを痛感せずにはいられない。もどかしいことこの上ない。しかし、それでも我々は言葉を信じるしかないのだ。世界は言葉でできていて、言葉によってしか他者を推し量ることはできないのだから。言葉を介してしかコミュニケーションを取る手段はないのだから。

 そんなことをぼんやりと思った作品でございました。いやー面白かった。

 結局感想文ではないような感想文。