後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

夜が明ける

 ラジオが好きでよく聴く。普段はradikoで深夜ラジオや住んでいる地域では聞けない番組を聴くことが多いのだが、日中に車を運転する時もカーラジオで流している。カーラジオで地元の番組を聴いていると、当然、番組の途中でCMも流れてくるのだが、そのCMの多くが法律事務所の債務整理か治験募集であることに気づく。それらのCMを聴く度に、なんとも言えない気持ちになるのだ。言い方はよくないが、普段ラジオを聴いている人ってのはギリギリ(色んな意味で)な人たちばかりなのか、と想像してしまう。

 普段、「貧困」ということを意識していない。それは、幸いなことに自分がそういた問題に直面したことがないからだろう。お腹が空けばご飯を食べるし、寒ければエアコンのスイッチを入れる。好きな音楽を聴き、映画を観て、アイドルのファンクラブだって入れている。もちろん「貧困層」と呼ばれる層の人がこの国にも一定数存在しているということはなんとなくの知識としては知っているが、やはり他人事に過ぎないのだ。テレビのニュースで生活保護の実態が特集されていても、現実感のないものとして受け入れている。いや、受け入れているというよりは、流れてしまっているのだろう。「大変だな」と思うことはあっても、自分がそうなる可能性を考えることは決してない。「東京じゃなくて物価の安い地方に住めばいいのに」「自分が借りた金は返せよ」「生活保護の金でパチンコ?許せねぇな」と、どこまでいっても他人事なのだ。

 なぜこんなことを書き出したかというと、最近、西加奈子の『夜が明ける』を読んだからなのだ。『夜が明ける』のテーマにしているのは、貧困、虐待、過重労働など、私達が見ないようにしている諸々だ。普段、こういった作品は読まない。こういう作品は、精神面が弱っているときに読むと食らってしまうから。で、自分はだいたい普段から精神面が弱っているので、「読んだらヤバいだろうな」とは思っていた。

 で、読んだ結果、案の定まぁ気が滅入ること。安易に「面白かった」と評価していいか戸惑うくらい気が滅入ってしまた。帯にはでっかく「救済の物語」なんて書いているけど、「本当にそうだったかぁ?」なんて思ってしまった。弱者は弱者のままだし、自分の場所が見つけられなかった人間は最後までそのままだし、現実も社会も何一つ変わっていない。一矢報いることもないまま主人公は過重労働で体をぶっ壊して自傷行為に走り、最終的にはその会社を辞める(辞めさせられる)ことになる。ブラック企業なんて「そんなとこさっさと辞めたらいいのに」なんて勝手に思ってしまうけれど、真面目で正義感の強い人ほど、逃げるという選択肢を選べないのだろう。貧困も同じで、真面目で優しい人ほど、誰か(国や政府も含めて)に頼ることができなくなる。そうこうしているうちに、ますます体も精神も破壊されていく。貧困や過重労働が奪うのは人間の自尊心だけでなく選択肢(逃げ道)もなんだろう。

 そして、『夜が明ける』はもちろんフィクションなんだろうけど、現実の事として対峙している人もいるのだろう。過重労働が積み重なった結果、自ら命を絶ってしまった人のニュースは時折みかける(ニュースにならないだけで本当はもっといるのかもしれない)。そういった、現実では私達が見ないようにしていたモノを真正面からぶつけられたような作品だった。いやはや、しんどい作品だった…

 

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 恐ろしいのが、今は読んで間もないから、食らったままの感情を引きずっているけれど、やがてこの感覚も忘れてまた前と同じように他人事のように感じる時が来てしまうんじゃないか、とも思ってしまうこと。