後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

『ユートピアをさがして』のこと

 どうしようもない不安にうなされることは生きていれば誰にだって起こりうることだ。その原因は仕事のことだったり人間関係のことだったり未来にむけた漠然とした何かであったり引きずっている過去の失敗のことであったりと人によって多種多様だけれども、共通しているのはその不安を考えすぎてしまうことなんだろう。考えすぎてしまううちに、自分自身の存在すらを肯定できなくなってしまう。はじめは水面に浮いた一抹の油滴のようなものだったのに、気づかぬうちに(いや気づいていても目をそらしていただけかもしれないけど)どんどん肥大化していき、あっという間に身動きが取れなくなってしまう。それは重油のようにどす黒く重く絡みつき、前を向くことすら億劫にさせる。
 そういった状況に陥る前に自己対処できる人は、きっと強くて生き方に自信のある人だ。そういう人は絡みついた重油を燃焼させエネルギーに変換し自身の推進力に変えられる。ロケットをどこまでも飛ばせられるのだ(ロケットの燃料は液体水素だろというツッコミはなしで)。
 しかしこっちはそうはいかない。自信を持った生き方ができないことも、どれだけ憧れてもそういう人間になれないことも、自分が一番よく知っている。どうしようもない不安はどうしようもない不安のまま付きまとう。「そんなことは慣れてること、いつものことだ」とスカしているつもりでも、心は着実に侵食されている。そんな状況では「頑張れ」「気にすんな」なんて多量生産された言葉も効果はない。悩みを吐き出すこと自体が恥ずかしいことだと思い込んでいるネガティブ人間は、そもそも誰かに背中を押してほしいわけでもないのだ。長年連れ添った自意識は深く根を張っている。
 だが、そんな人間にこそ、『ユートピアをさがして』は効く。別にこの曲を聴いたからといって悩みの元凶がなくなるわけでもないし、生き方が変えられるわけでもない。後ろ向きは後ろ向きのままだ。「これはもしかしたら自分のための歌かもしれない」という発想は気の迷いにすぎないし、それこそ幻想だ。脳内の一千億個のニューロンの紡ぐ何兆通りの接続のうちのどこかの回路の暴走がみせる都合の良い勘違いにすぎない。でも、その気の迷いはたとえ刹那的であっても、絶大なパワーを発揮してくれる。世界のどこかで自分を観測してくれている誰かがいるかもしれないと思えることは、それだけで自分自身の生き方を肯定する力になり得るのだ。自分の生き方を肯定できるということは、世界を肯定できるということだ。不安の根本的な解決にはならなくとも、それは可能なことなのだ。『ユートピアをさがして』は、そんな幻想に縋って生きることもそれほど悪いことじゃないのかも、と思わせてくれる。ユートピアは現実には存在しないものだけど(だからこそ「理想郷」と言うのでしょう)、きっと頭の中には確かに存在しているものなんだろう。青い鳥がすぐ近くにいるように。そしてそれはつまり、生きている限り存在し続けてくれるということだ。