後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

ブラックアウト

 11月5日。土曜日。今日も昼間は暖かく、よく晴れた一日でした。雨と晴れのバランスが今年の秋はとんでもなく良いな。

 午前中は家でぐったりしていて、午後から研究室へ。週末は人が少ないので作業が捗ります(主に実験室と実験機器の都合)。あとは、来年度のお仕事用の申請書類を作ったり、報告会用のスライド作りの続きをしたり。基本的に、平日だろうが土日だろうがほとんど変わり映えのない過ごし方をしているんですがね。で、ある程度のところでキリをつけて家に帰り、さてご飯でも食べようかしらと腑抜けていた時になって、上着のポケットに実験室の鍵が入っていることに気付きました。ガッテム。なってこったい。でも再び研究室に行くのも面倒くさいの極みですし、あとどうせ日曜日も午後から行くわけですから、30秒だけ迷った挙句に返しに行くのを諦めました。なんにも見なかった知らんかった。鍵なんてもってねぇし。

 そういう土曜日です。平和やね。

 昨日は某女性アイドルグループや某男性アイドルグループでメンバーの卒業や脱退が発表され、大きな話題になっていました。私はそれぞれのグループのことを詳しく知ってるわけではないのですが、推しているアイドルの卒業発表(あるいは脱退の発表)というのは、応援しているアイドルがいる人にとっては他人事じゃないわけで、ニュースを見ながらファンの気持ちを勝手に想像して胃が痛くなっておりました(メンタルよわよわ人間)。

 このブログには何度も出てきていますように、私にも今応援しているアイドルグループがいて推しているアイドルがいて、そしてやがていつかはその子も卒業するわけです。そうじゃなくても、そのグループのメンバーの卒業も見てきましたし(前向きな理由に納得したものもあれば不本意な理由だった卒業も)、過去には応援していた声優さんがアーティスト活動を休止したり応援していたグループが解散したりもしました。「推しの卒業は推す側が背負わなくてはならない業のようなもの」とは何度も書いてますが、何が一番しんどいかというと、卒業や脱退といったイベントそのものではなくて(もちろんそれもキツいことですが)、「生活や日常が変わらず続いていくこと」なのかなと最近になって思うようになりました。「推す」というのは愛の行為であって、対象を肯定することであって、生きていく世界を肯定することです。大袈裟でなくて。ですが、その「推し」の存在によって肯定できていた世界が、「卒業」というファンが一切抗えない二文字によって急に暗転しブラックアウトしてしまうのです。それはもう、世界まるごとなくなってしまったのと同じ威力でしょう。ですが、どれだけの威力で、世界丸ごとなくなってしまうような衝撃をくらったとしても、もちろん日常は変わらず継続されていくわけで、それがめちゃくちゃしんどい。

 昔付き合ってた人にフラれた時「自分がこんなにしんどい思いをしてんのに、なんで社会は呑気に変わらず続いてんだ」と理不尽にムカついたことがあるのですが、その感覚だと思います。多分。そんなことを思い出しました。そういえば宇佐美りん氏の小説『推し、燃ゆ』では、「推し」のことを「背骨」と例えていました。背骨を失と人間は自重を支えらず運動が行えず、生きていくこともできなくなります。推しの卒業とは生きていくための骨を失ってしまうことで、骨を失っても世界を生きていかなくてはいけないことなんだろうな。そんなことを考えた昨日今日でした。