後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

チューニング・歩法・セトリ

 11月20日。日曜日。昨日よりもほんのりと暖かく過ごしやすかった一日。午前中は意識が朦朧としていましたが、お昼から研究室へ。相変わらず七面倒臭い分析作業を進めています。代わり映えしねぇのな。先週の土日は東京へ行きましたが、今週はいつもの過ごし方です。しかし生のライブを観に行って受容されるエネルギーは絶大なもので、面倒な作業が続いて愚痴を言いながらも「しゃあねぇなぁ!」と気持ちを持って行けてます(愚痴は言うけれども)。なるほど生活の糧とはこういうものなのか、と実感しております。相変わらず面倒で不条理で理不尽なことも多い世の中だけれどもさ。

 あるいは、もちろんライブやイベントそれ自体が活力となりえるのでしょうが、物理的に面倒事の集中している場所(すなわち生活している圏内)から離れることが大事なのかもしれません。先週の東京行きのが私にとってのそうであったように。だからみんな旅行に行くのかもしれないな…と今更ながら思ったのでした。ここ二年半くらいそういった長距離の移動をしなかったのですっかりこの感覚を忘れていました。コロナ禍前はライブ等のためにちょくちょく出かけていて、当時は気づいていなかったけどその移動自体がチューニングになっていたのかもしれません。なのでいくら配信ライブが発達していても、やはり定期的にでかけた方が良いのかもしれません。そんなことを思ったのでした。

 最近読んだ本の話。ここ最近はフィクションを2冊。宮澤伊織『神々の歩法』と柴田勝家『走馬灯のセトリは考えておいて』を読みました。

 

 宮澤伊織氏といえば『裏世界ピクニック』シリーズがあまりにも有名で、「百合」や「キャラ萌え」の作家のイメージがどうしても強いのですが、こちらは突如地球に現れた無敵野郎その他諸々とそれに対抗する人間軍と人間側についた無敵少女のタッグペアによるドンパチアクションSF作品。著者があとがきで「「若い」作品だった」と述べていましたが、まさに勢い先行でそのまま走りきったような読後感でした。4つの連作短編から成り立っていて、表題作は『裏世界〜』よりも前の作品なのですが、しっかりキャラ萌えの片鱗をのぞかせていてたのは、もうそういう作家の癖なのでしょう(褒めています)。

 『走馬灯の〜』は先週発売したばかりの柴田勝家氏(武将じゃない方)の新作短編集。といっても書き下ろしの表題作以外はSFマガジンやアンソロジーに掲載されていて、すで読んでいました。でもお気に入りの作家の作品は、例えそのほとんど読んでいてコスパ悪くても買ってしまうのよねぇ… 今作も表題作だけのために買ったようなものです。でも、この表題作『走馬灯の〜』がドンピシャに良かったのです。「かつて人気だったVTuberが葬式の代わりにライブを行う」という話なのですが、色々とぶっ刺さりましたね。「アイドルSF」というジャンルはここ数年でかなり増えましたが、どれもこれも何かしら当てられています。きっと「アイドルSF」というものに対して閾値が低くなっている(感度が高くなっている)のでしょう。