後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

生活の印象の印象

 このブログ(のようなもの)には何度か書いたことがあるかもしれないが、インターネットの可能性を信じなくなったのはいつ頃からだっただろう。

 昔、私が高校生の頃は受験ブログがちょっとしたブームになっていて、私もやっていた。そこでは、参考書に〇〇使っただとか、今日は△△時間勉強したとか、いかにも受験ブログらしい内容もあれば、全く関係ない社会に対する青草い不満とか自虐とか、そのときに見た映画の感想とか自分がいかにモテなかった話とか、ごった煮のようになんでもかんでも書いていた。オフ会にも何度か行ったし、そこで知り合った友人もいる(ありがたいことに今でも付き合いのある人もいる)。きっと、何かを書いて発信するという行為そのものが楽しかったのだろう。当時はスマートフォンはおろか、パソコンも家になかったので携帯電話の物理ボタンでポチポチと打って毎日のように記事をあげていた。今じゃきっと無理だろう。振り返ってみれば、そんなの中毒性でもなければやってられない苦行だっただろう。だけどおそらく、当時の私は個人を発信するツールとしてインターネットにハマっていたのだと思う。

 なのでインターネット上のその類のコンテンツには一通り触れてきた。mixiもやっていたし、フェイスブックもやったし、初期のモバゲーももちろんツイッターも。前略プロフはやらなかった(当時のクラスメイトの女子が性別の欄に「パコられる方」と書いてて怖かったから)。ツイッターは2010年頃から始めて12年くらいだ。8〜9年くらいまでは楽しかったと思う。つぶやく頻度は多い方ではなかったけど、そこで知り合った友人もたくさんいる。

 だけど、いつからかしんどく感じることの方が総量として多く感じるようになった。別に私自身が炎上したことは一度もないのだけど、ツイッターを開く度に誰かが炎上していて、誰かが怒っていて、誰かが槍玉に挙げられている。その光景は眺めているだけでも、ちょっとしんどくなる。そりゃ、生きていれば何かに腹を立てたり誰かにムカつくこともあるけれどさ。でも、誰かが誰かを攻撃している光景って、見ていて気持ち良いもんじゃない。それが複数対一人となるとなおさらで、それはもはやただのリンチじゃないか。SNS(主にツイッター)では、怒りが当事者間をあっという間に超えて拡散され、その度に怒りは増幅され、揚げ足はとられ、文脈は都合よく切り取られ、内容は歪曲し改変され編集されて、もはや誰が何に対して怒っているのかわからなくなっている状況が多々見受けられる。論理の正当性はすぐに失われ、議論とは到底言えない罵詈雑言が並びだす。それがとてつもなくしんどくて、なぜだか少し悲しくもなる。いつから「正義(と信じているもの)」があれば、相手に対して何を言っても良くなったのか。「多様性」って個人攻撃の理由になりうる言葉だったっけ。「SNSってそういうものだし、あなたが向いていないだけ」と言われたらそれまでだけど、向いていなくても利用して良いのが自由で豊かであるということだろう。

 今でもツイッターはたまに見るしつぶやくけれど、そのつぶやく内容は毒にも薬にもならないものばかりになった。炎上した経験はないけれど、できるだけ誰も傷つけないように、できるだけ誤った読み方をされないように、できるだけ変なヤツに目をつけられないように、慎重に文章を編集しつぶやく。「つぶやき」なのに編集をしているのだ。そしてふと、あれほど夢中になっていたインターネットの自由ってこういうことだっけ?と疑問に思うのだ。

 おそらく、一昔前に比べたら社会はずっとクリーンになってきている。犯罪件数は減少しているし、環境問題だってあの手この手で良くしようと躍起になっている。今では想像を絶するほどの差別だって、完全に無くなってはいないかもしれないけど、社会全体で無くしていこうとしている。それは正しいことだし、明らかに、確実に、社会は優しい方向へと向かっている。そう、優しくなっているはずだ。優しくなっているはずなのに、どうしてこうも居心地悪く息苦しく感じてしまうのだろう。そしてその息苦しさはインターネットでより顕著に感じるようになった。むしろ逆に、現実世界ではその息苦しさを感じなくなった。もともとは現実世界が息苦しくて上手くいかなくて、自由を求めて入り込んだインターネットだったはずなのに、いつの間にか逆転してしまった。

 誰しもに品性高潔であることが求められるけれど、なかなかそうはいかないだろう。世界には色んな人間が住んでいて、色んなことを考え、色んなことに悩み、色んなことを吐き出して生きている。そこには社会の価値観に合わないことが含まれているかもしれない。それをすべて許容すべきだとは別に思わないけれど、いくら他人がそれを正そうとしても、そもそもが到底無理な話なのだ。多数決は効率的だけど、絶対的に正しい手法ではない。色んな矛盾を根底に孕んでいるのが人間なわけであって、矛盾を抱えたまま生きていくしかないのだ。あの頃求めていた、矛盾を吐き出せる場所はどこにいってしまったのだろう。もう無くなってしまったのか。みんなどうやって己の中の矛盾と折り合いをつけているのだろう。

 

 そんなわけで(そんなわけで?)、樋口恭介『生活の印象』を読みました。先月リリースされた『眼を開けたまま夢を見る』と同じく、電子書籍限定での出版のようです。今回のこれは、その『生活の印象』の感想文のような、感想文の皮をかぶった私自身の吐露のような、吐露の皮をかぶった感想文のような、あるいはそのどちらでもない垂れ流しのようなものです。

 最後に。画像にあるように、本作の表紙にアザミの花があしらってあり、その花言葉について本文でも触れています。花言葉は調べたらすぐ出てくるので詳しくは書きませんが、でも、アザミに似ていて丸くて美しい青色の花をつける瑠璃玉アザミの花言葉には「豊かな感情」もあるのです。なので、どうか著者の樋口氏には、健やかに、豊かな感情のままに生き続けていてほしいと、一読者にすぎない私は身勝手に願うのでした。