後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

「ダサくねーし!」(ドラマ『DASADA』の感想文のようなもの)

 思春期は「ダサい」に敏感な時期だ。「ダサい」が自我を構築しているとも言える。あるいはそれは、周囲にあふれる色んな人間や事象を「ダサい」と評価することで、そこに混じれない自分をプロテクトする行為なのかもしれない。まるで恋愛が人生の主目的だと思わんばかりにカッコつけてる奴とか、テレビでやっていたギャグを真似して人気者になってる奴とか、後輩とばかり遊んでいる年上とか、友達感覚で生徒に接してくる教師とか、毎日酔っ払っている大人とか、色んなものがダサいと感じていた。世界丸ごとダサいと感じていたのだ。じゃあそんな自分自身がイケてる人間だったかというと、そんなことは一切なく、やっぱり「ダサい」のだ。結局同じことなのかもしれない。そうやって周囲のものを否定することで、薄皮でコーティングされたハリボテの自尊心をハリボテとバレないように守っているのだ。自分が恋愛をする勇気もないからモテようとしているやつを馬鹿にし、人気者になれそうもないから人気者を馬鹿にし、熱中できるものが己に無いから何かに熱中しているやつを馬鹿にしているのだ。それが唯一の自身を無敵だと信じることができる手法なのである。ダサいやつがダサいやつをダサいと決めつける、青春はダサいにあふれている。

 その過剰な防衛反応も、年をとり色んなことを知ったり学んだり経験していくうちに余裕が出てくるせいか、寛容になってくる。あれだけ世間のほとんどの人間やモノにムカついていたのに「馬鹿だったな」とか「若気の至りだったよね」と平気な顔をしてほざくようになるのだ。まぁきっとそんな今の自分を当時の自分が見たら「ダセぇ大人だな!」とツバを吐きつけてやりたくなるのだろうけれども。ごめんな過去の私よ。

 さて、そんな「ダサい」ことは別に悪いことではない。そりゃそうだ。人間だれしも「ダサい」を持っているものだし、何かをダサいと感じるからこそ、「ダサくなりたくない」という発想にもなり得るのだ。内部にうごめくドロドロとした負のエネルギーを爆発させエンジンを回転させる。その方向は勉強だったり部活だったり異性に対してだったり友好関係だったり承認欲求だったりと、人によって違うかもしれないけれども。それを思春期特有の全能感と呼ぶのかもしれない。それが「ダサい」と牙をむくことの少なくなった大人との大きな違いだ。もちろん同じ人間の直線上にいるわけだから、環境が多少変わったところで何かをダサいと思うことはあるけれども、「まぁ誰にでも生きてりゃそういうこともあるよね」とスカしこくことができる。そして自分の「ダサい」に対しても、別に指摘されたところで何も思わない。でもそれは強くなったわけでは決してなくて、ただ単に受け流す技を覚えただけだ。自分の中で受け止めることをしなくなっただけなのだ。大人は「ダサい」と戦わないのだ。あるいはもしかしたら、大人というのは「ダサい」を原動力に変換する能力が衰えた生物といえるかもしれない。

 現在、日テレで『DASADA』というドラマが放送されている。クラスの中でも「ダサい」ことで評判の主人公が仲間と助け合いながらファッションブランド「DASADA」を立ち上げていく…という内容の学園ドラマだ。イントロダクション通り、主人公はどこか「ダサい」のだが(それを武器にできるのは主人公がゆえ、なのだが)、それだけでない。このドラマに出てくる登場人物たちは、みんなやっぱりどこか「ダサい」のだ。クラスメイトも、モデルとして活躍しているスクールヒエラルキーのトップに君臨する先輩も、憧れの最強クリエイティブアイドルユニットも、みんなどこか「ダサい」部分を持っている。もちろんドラマだから誇張している部分もあるのだろうけれども、それでも、「これってとてもリアルなことなのでは…?」と作品を観ながら感じた。そして気づいたらドハマリしていた(結局それが言いたい)。もともとは日向坂46メンバーが出演しているから見始めたわけだが、いつの間にか物語自体に惹かれていたのだ。いやはや、『DASADA』めちゃくちゃ面白いです。

 自分の「ダサい」部分というのは、普通、隠しておきたいものである。他の人間からは見られたくないし、自分にとってもできれば見ないふりをしておきたいものだ。それは自分がそのダサさを一番よく知っているからだ。コンプレックスと言い換えても良いだろう。だが、ドラマの中で登場人物たちのダサい部分は引っ張り出され、オープンにされる(意図せず露わになってしまう場合もあるのだが、というかそれがほとんど)。そして能天気な性格の主人公に受け入れられ、仲間に受け入れられ、自分自身でも認めることができるようになる。あんなに嫌っていた自分の「ダサい」は、実はそんな大したことなかったのかも、と思えるようになる。そしてそれを前に進むエネルギーに力強く変換していく。

 もちろんこれはドラマであるから、強みに変えることってのはなかなかできないかもしれない。現実には奇跡的な転換期なんて訪れず、受け入れてくれる友達なんて現れず、「ダサい」を背負ったまま大人になっていくのがほとんどだろう。だけれども、きっと大切なのは「ダサい」を自覚することなのだと思う。自分の中に巣食うクソダサモンスターの存在を認めてやることで、ちょっとだけ生きやすくなるかもしれない。ダサいはダサいのまま、コンプレックスはコンプレックスのままかもしれないけど、自分ぐらいはその存在を「しょうがねぇなぁ」と許容してやれることが、心を軽くする手法なんだと思う。クソダサモンスターの頭を撫でてやれる人ってのは強い。ダサいけど強い。そしてカッコいいのだ。そういうことをこのドラマは言っているんじゃないかな、なんて思ったのであった(まぁそれが一番難しいことなのかもしれないですけどねぇ〜)。

 そんな超面白いドラマ『DASADA』は現在地上波では8話まで放送されている(Huluでは9話かな)。物語もいよいよクライマックスで片時も目が離せない。ちなみに主題歌『青春の馬』は、以前にも書いたかもしれないけど、これまた超良い曲なのだ…

 


日向坂46 『青春の馬』Short Ver.

 

 ぐちゃぐちゃ長ったらしく書きましたけど、結局何が言いたいかというと「うわ〜ん『DASADA』超面白いよ〜!」というお話でございました。