後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

夏みかんの樹

 父親が亡くなって1年ほどになる。あっという間だったな、という率直な感想だ。当たり前なことであるけれど、家族が減るというイベントは生きていれば誰にでも起こりうることであるし、家族が減ったその前後で時間のスピードは変わらない。家族が減ろうが増えようが、同じスピードで淡々と時は流れていく。

 ただ、やはり亡くなった後の2, 3ヶ月は塞ぎ込んでしまうことが多かったな、と今自分のことを振り返って思う。親の方が早く死ぬ確率の方が当然高いし、そのためにしてあげられることは、自分なりに生きているうちにしてきたつもりだった。しかしそれでも、自分が予期していたよりもその時は早く、唐突にやってきた。父は入院してそのまま2週間ほどで亡くなったのだのだが、その日も午前中に着替えを渡して他愛もない会話をしたぐらいだった。また、父は農業を営んでいたので、その年のスケジュールのことや、農薬の入金のことなどをいくつか指示されたことを覚えている。その後、家に帰って頼まれていたことをこなして、自分の仕事をし、うとうとしているうちに夕方ごろ病院から連絡が来た。病院に駆けつけるとすでに病室が医師や看護師でいっぱいになっていて慌ただしい雰囲気だった。何が何やらわからないうちにその場で延命治療(身体にチューブをつなげることで意思疎通はできなくとも生きながらえる方法らしい)をするかどうかの選択を迫られたが、その後のことはあまり覚えていない。おそらく親を看取ったことになるのだろう。「親の最期を看取ることが親孝行」なんて全く思わなかった。あれはどこの馬鹿が言い出した言葉だろう。あまりに唐突で、あまりにあっけなくて、淡々とした死に際で、悲しむ余裕もなかった。いや、自分が悲しみたかったのかもわからない。一人残された病室で、すでに息もなく意思もなく温度も下がりつつある器だけとなった肉体を前に何を感じたかも思い出せない。ただ、ベッドに横たわった父の手はいつの日か握った父の手と変わらずゴツゴツとしていた。生きていても死んでしまっても変わらないものなんだな。今思い出せるのはその手の感覚だけだ。

 思い返せば、入院している時も父は「死ぬかもしれない」とも「死にたくない」とも言わなかった。もしかしたら思っていたのかもしれないし、とんでもなく苦しかったのかもしれない。けれど、それを私の前では出さなかった。親戚に連絡しようかと訊くと「向こうの迷惑になるからやめておけ」と拒んでいた。入院したときぐらい迷惑をかけても良いじゃないか、とも思ったが、それが父の生き方だったのだろう。父はそういう人間だった。最期まで力強く、潔く、一人で死を受け入れて一人で死んでいった。

 そしてシステマティックに葬儀の日取りが決められていった。葬式も金額によってランクがあるらしい。あそこの寺に頼むと高くつくだとか金を積むことでお経を唱える坊さんの人数が増えるだとか、そんなことを聞かされた。少し前に読んだとある人のエッセイに書いてあったこと(火葬場の値段にまで経済が入り込んでいたということ)と全く同じ光景で、ちょっと笑ってしまった。その中で質素なものを選び、葬儀も家族葬で執り行った。それは、父がいかにも金のかかった大げさな葬式を小馬鹿にするような人だったからだ。あまり褒められたことではないけれど、言いたいことはとてもよくわかる。盛大に弔われることに価値を感じていないのだろう。死んだ後にまで周囲に面倒をかけるのが嫌なんだろう。もともと親戚づきあい自体も少なかったので、当日の葬儀も滞りなく、ひっそりと、静かに執り行われた。そしてあっという間に父の体は煙となり灰となり骨だけになり石に入れられた。父が生きた証は紙一枚を役所に出して片付けられた。生と死の境界はたった一枚の紙切れで区切られていて、それはあっさりしたものだった。でも、きっとそういうものなんだろう。そういうふうに人の生き死にも現代社会のシステムの一つに組み込まれていて、そこでは生き様も、語ってきた言葉も、最期の表情も、そういった情報は一切排除される。別にそれを嘆きたいのではなく、それが現代で生きるということなんだろう。

 葬儀を終え、納骨も済み、再開された日常も数ヶ月たち、それぐらいの時期にようやく自分が一人になってしまったんだな、という実感が湧いた。なにしろ私は父子家庭で育ち父と二人で暮らしてきたので、家族が減るということの影響は、一度それに気づいてしまうと無視できないくらいに大きい。一人で住むには今の家は広すぎるし、庭は手を加えないとすぐに雑草が生えてくる。一人だと電気代はこんなに安いのかと思ったり、世帯主になったことで色んな知らせが自分宛に送られてくる。そういった日常の当たり前のような一つ一つの出来事が、自分が一人だけとなってしまったことを強制的に感じさせた。でも、そう思っていたのもきっとその時だけだったのだろう。すぐに慣れてしまい、家に残っていたはずの自分以外の家族の有機的な匂いも、音も、熱も、すぐに拡散して消えてしまった。一年も経てば慣れてしまうものだ。きっと慣れるということは忘れることと同義なんだろう。そして忘れるということは人間が精神を保つためにできる唯一の防衛機能なんだろう。そんな一年だった。

 また、一周忌のような法事の類は一切しないことにした。きっとこれからもそうするだろう。葬儀は執り行ったけれども、それで十分だと思う。ああいった儀式は遺族のためであって、生者のためのイベントだ。死んでしまった者のために生者がしてあげられることは何一つない。もちろんだからといって、それらを否定するつもりも全くない。遺族が法事を行うと決めたならばその選択を尊重するだろう。もし連絡がこれば謹んで参列するだろうし、そうしてきた。ただ、自分が実際に遺族の立場となってみると、やはり日取りを決めて大勢に参加してもらってお経を唱えるという行事は必要ないのでは、と思うのだ。自分の信仰心がそこまで強くないことも関係しているのかもしれないが、死者を偲び祈る行為に決まった場所や時間などは必要ないと思う。祈りを捧げたい人間が各々の感じたときに静かに祈ればそれで十分なのだと思う。どちらが偉いというわけでもなく、残された者がどちらが自分のためになるのかを考えて決めれば良いことだ。なので父の命日もほとんど普段と変わらず過ごした。墓に花を手向けたぐらいだったかな。その行為にどれだけ意味があるのかはわからないけれど、なんとなくそうしたかったからだ。やっぱり心のどこかでは死に囚われているのかもしれない。

 今日は休みの日だったので家で作業をしたり仕事をしていた。家にはベランダがあり、作業に飽きるとそこに出て煙草を吸うのだが、そこから庭を見渡すことができる。庭の隅には枯れてしまって細い幹だけとなった夏みかん若木がある。それは父が亡くなる一年ぐらい前に植えたものだ。樹木の市場で苗木を買ってきたので、私も手伝ってスコップで地面を掘り、支柱と共に植えて稲わらを敷いた。だけどうまく育たずいつの間にか枯れてしまった。別にスピリチュアル的なことと関連付ける気は毛頭なく、きっと土が合わなかったり虫にやられてしまったのだろう。そういうものだ。でも、その枯れてしまった木を見ると植えた時のことを時々思い出す。あの人は実をつける日を楽しみにしていたのだろうか。それとも自分がいつか死んだ後にもその樹が残ることを想像していたのだろうか。そんなことは恥ずかしくて訊けなかったし、無口な父だったからおそらく答えてくれなかっただろう。きっとこの回顧も想像も無意味だ。木は枯れてしまったので実をつけることはないだろうし、うまく木が育ったとしてもいつまでこの家があり続けるかもわからない。樹も家も人もいつかは朽ち果ててしまう。存在するということは、生きるということは、そのようないつかは消えてしまうという不安定さを常に根底に孕んでいる。そして不安定だからこそ、考えても仕方のない無意味なことを、まるで気の迷いのように時々想い起こすことができるのかもしれない。