後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

ラブロマのこと。

 ゲームのエンディング後の世界のことを想像しなくなったのはいつの頃からだったろうか。あの頃、自分はたしかに世界を救うためのヒーローだったし、隣にはヒロインがいたのだ。手をつないで城から二人で抜け出そうとしていたし、地球を脅かす宇宙人とも戦っていたのだ(ハマっていたゲームがバレてしまう)。もしかしたら主人公に自分の名前をつけていたのもそういったことの現れだったのかもしれない。そしてハッピーエンドを迎えた後でも、スタッフロールが流れたあとでも、自分が救った平和な世界のその先をいくらでも妄想できたものだ。そんな力があの頃の自分にはたしかにあった(だからクリアしてもセーブをしたラスボス戦手前に戻されるゲームが心底嫌いだった)。というか、せっかく救った世界の終わりを認識することが嫌だったのかもしれない。たとえそれが経済主義に沿って大人が狙って作り上げた0と1でプログラムされただけの虚構であったとしても、その時の自分はそんなこととは関係もなく主人公だったのだ。大量生産されたストーリーなのかもしれないけれど、自分が主人公の物語として再構築することができたし、それはやっぱり自分だけの世界だったのだ。

 しかし、いつからからそんなことをしなくなった。できなくなったと言ったほうが正しいかもしれない。物語はエンディングを迎えたらそこまでだ。大仰なストーリィも閉じてしまえばそれまでで、自分の生活とは切り離されている。数多ある娯楽の一つとして、ただ消費するだけの存在となっている。それが大人になっていくことに必要な通過儀礼だとするならば、もしかしたらとんでもなくつまらないことなのかもしれない。

 別にゲームに限ったことではない。この世はたくさんの不思議でワクワクするものに溢れていたはずなのに、理屈や理論を学びルールを知ることでその不思議を排除するようになった。それが生きやすくするために自分が社会に適応し、また自分を社会に最適化させていくということだ。あんなにもワクワクしていたはずなのに、自分でつまらなくしているのだ。主人公どころか、モブであることすらもやめているのかもしれない。ただ目の前にあることをこなして、呼吸をして、消費していくだけの生き物になっていないだろうか。

 『ラブロマ』はあの頃のワクワクを想起させてくれる。主人公に憧れていた、世界を主観で生きることができていたあの頃の自分を思い出させてくれる。それはこそばゆくて、恥ずかしくて、自分の中だけの秘密にしていた記憶なのかもしれないけれど、でもそのこそばゆさが心地よくもあったりする。魔王も宇宙人も敵も魔法も出てこないけれども、もう少しだけこの世界を愛することができるかもしれないし、ちょっとだけ生きていくことが楽しくなったりもする。穏やかで退屈な日々を、もう少しだけ胸を張って生きていける。

 

ラブロマ feat.駒形友梨/学園祭学園