後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

鉄棒

 別宅から歩いて5分くらいのところに公園がある。そこは住宅街の中にあるこじんまりとした所なのだけど、そこには鉄棒があり、最近は深夜にそこで鉄棒をするのがちょっとした気晴らしになっている。何を隠そう(別に隠してはないが)、私は高校生の頃に体操部に所属していたのだった。

 だから最初は、なちぃな〜と思いながら逆上がりや前回りをしていたのだけど、そこから発展して今は蹴上がりとかほんてん倒立を夜な夜なやっている。これが、とても楽しいのだ。鉄棒を握ったのなんて10年以上ぶりだから初めは自分の体の重さに驚愕したし、手の皮なんてすぐ剥けてしまったり、尋常じゃないくらいの筋肉痛を翌日味わっているのだけど、そんなことは微小に感じるほど楽しいのだ。

 そして、この「楽しさ」は別の趣味の、ライブを観たり、映画を観たり、本を読んだりすることとは全く異なるタイプの「楽しさ」のように感じる。この「楽しさ」が何なのかと色々考えたけど、きっと「楽しさ」を味わうために他者(そして他者の創ったもの)を必要とするかどうかの差なのだろう。与えられるものではなく、自らの身体を通じてその感覚(筋肉の痛みとか、鉄棒を握ったときの冷たさとか)を実感させられるといったような。与えられる「楽しさ」ももちろん好きだけど(アイドルもララジオもSFも大好きだ)、それはやはりコンテンツに依存している。依存した「楽しさ」は、依存しているので常に新たなそのコンテンツの動きを欲してしまう。その供給が途切れてしまった途端、きっと飽きてしまうだろう。

 だから、一人で楽しめるモノってのはそれらとは別に一個でも持っていたほうが良い(と私は思う)。その楽しさは他者と共有しなくてもよいし(そもそも理解されにくいものだろう)、感想をつぶやくSNSも必要ない。自分ひとりがその楽しさを知っていれば良いのだ。地面を蹴り、重力をビリビリと身体が感じながら世界が回転している時間を、一人だけで楽しんでいる。もしかしたらこの状態を「没頭」と呼ぶのかもしれない。映画『ピンポン』で、ペコとドラゴンが対決した時に背景が真っ白に飲み込まれて卓球台だけが存在しているあの感じだ(わかりにくい例え)。そして、自分の場合はそれが鉄棒だったのだけど(今後、他にも見つけられるかもしれないが)、それは人によって様々なのだろう。例えそれが他人には理解できないものだったとしても、迷惑さえかけなければ、何をやったって文句を言われる筋合いはないのだ(文句を言われて辞められるものでもないだろうし)。

 そんなことを考えてたら、昔、小学生の頃のことを思い出した。私の住んでいるところは田舎だったのだけど、近所に変な木彫りの彫刻をつくっている爺さんがいた。その爺さんは木彫りを彫っては自分の家の前に置いていくので、だんだんと木彫りが溜まっていく。そしてある程度溜まったら一気に無くなるのだ(捨てていたのかは知らない)。その木彫りも別段上手な出来栄えでもなかったので、私は子どもながらに「変わった爺さんだな」と思っていた。でも、今にして思えばそれが爺さんにとっての「楽しさ」であり「没頭」だったのかもしれない。わりぃなじいさん、今頃理解できたぜ。

 自分だけの楽しみに没頭している間は、他のことを忘れられる。仕事や健康の悩みだったり、将来に対する漠然とした不安だったり。特に自分は色々なことが細かな傷として頭に残りやすい方なのだけど、それらひっくるめてその瞬間は忘れさせてくれるのだ。そう考えると、高校生の時に体操部に入って熱中しててよかったな、と今更ながら思う。まぁ他の部活に入ってたら、それが「楽しみ」を与えてくれるモノになっていたかもしれないけれど。

 そんなことを思ったのでした。

 

 先日は家に戻った時に、高校生の頃に使っていたプロテクター(鉄棒や吊り輪で使う、手を保護するもの)を引っ張り出した。その頃と比べると体も衰え固くなった今だけど、試しにプロテクターを手に付けた時はニヤニヤが止まらなかった。

 

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