後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

いい年こいて

 11月13日。金曜日。いつの間にやら11月に入っていたどころかもう2週間が経つではないですか。とはいいつつ、生活スタイルはほとんど変わっておりません。論文を書いたり実験をしたり文献を調べたり、講義のお仕事で日銭を稼いだり、ラジオを聴いたりと、そんな感じの日々でございます。あー忙しい。
 年末が近づいてくると、諸々の書類を書かなくてはならないのですが、年末調整の書類が今年はやたらめったらややこしいなぁ、と感じました。こんなに煩雑だったろうか。さっさとマイナンバと紐付けしてもらって、こういったややこしい書類とはおさらばしたいものです。
 SNS(というかツイッター)から距離をとるようになって5ヶ月ほどになります。一応アカウント自体は残していますが、たまーにDMのやりとりをする程度の付き合い方をしています。ほぼメーラーと同じ使い方ですね。もう一個、好きな作家さんのお知らせや出版社や番組の告知を読み取る用のアカウントも持っていますが、そっちはフォロワーほぼゼロなので、自分のつぶやきを他人に見られることはありません(つぶやき自体もあまりしませんが)。そんな使い方をするようになって感じたことですが、おそらく自分のことをあまり知られたくないし、他人の生活をさほど知りたくもなかったんでしょうね。長年ツイッターをやっていたくせに(実は利用歴は10年近いのです)、距離をとるようになって初めて気づきました。もっと早く気づけただろって話ですね。あはは。
 イベントとかライブとか、あるいは映画や小説などの作品に触れたときに、そのときの自分の感情や感覚を言葉にしたくなって感想をツイートしてしまうことはありますが(自覚はしている)、だからといって他人の感想は別に知りたくはないのです。投げっぱなしです。そして、この感覚はツイッターなどのSNSを介してのコミュニケーションにおいて感じることであって、実際に人間同士のコミュニケーションを行う際はそういった感覚にはならないのです。なんなんでしょうね。文字に落としているからそうなのか、あるいは顔や声がない環境がそう感じさせるのかはわかりませんが…
 また、それにつながった話じゃないですけど、たまに見かける「#○○好きとつながりたい」というハッシュタグは、ちょっとびびります。「おいおい本気か、そんなにみんなつながりたいのか…?」と、自分の感覚とのずズレを味わわせられる瞬間です。例えば、私はSF小説が好きですが、別にSF小説好きとはつながりたくないです(そこにはSF小説好きはちょっとやばい人が多い、という偏見がもう一個乗っかっていますが…)。また、同じ○○好きだからといって、話が合うとも限りません。なので「#○○好きとつながりたい」は「私と話が合う人が○○も好きだったら良いな」とほぼ同義なのではないか、と訝しんでおります。
 まぁ、要するに、いい年にもなってコミュニケーションが苦手なんでしょうね。雑な結論です。