後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

墓の重力

 12月12日。日曜日。今日は風が少し強かったがほんのりと暖かかった一日。今日が父親の月命日だったので墓参りに行きました。実家から5分くらいのところにあるので、なんとなく毎月欠かさず墓参りには行っていますが、住んでいるところが今よりさらに遠くなったら(今は実家まで車で1時間ほどかかる)、それもだんだんと難しくなるのでしょうなぁ…

 実家にはでかい仏壇があるのですが、そちらはほとんど扉を閉め切っています。墓だけを大事にしているつもりはないのですが、仏壇はおざなりになってしまいがちです(あくまでも、私にとっては、という話です)。やはり、骨が納まっている場所という、物質的な物のある無しが影響しているように感じます。それに比べると、いくら仏壇は「仏様を祀る場所だ」といわれても、それはあくまで信仰と言葉であって、故人を偲ぶ場所としては、私は変に感じてしまうのです(自分の感覚と合わない、というべきか)。だから、葬式はしましたが、その後定期的に人が集まってそこで法事を行うことはしません。そもそも故人を偲ぶのに仏壇も不要ではないか、と思うのです。

 そんなことを言ったら墓だって骨があるだけでは、ということになるかもしれませんが。でも、やはり墓の方が生者を引きつける力が強いのでは、と思うのです。以前読んだ本で、墓の起源には狩猟から農耕への生活スタイルの移行が関係していた、という話がありました。移動しながらの生活では、遺体を連れ回るのは非現実的なため死んでしまったら遺体はそこに置いて、それでおしまい。しかし、定住化すると亡くなった者をすみかの近くに置いていくことになります。すると、だんだんと遺体が腐り朽ちていく様子も自然に目にし、死んでしまった後も遺体は生活圏内に残り続け、死というものを考えるようになったという。また、定住生活が続き、その場所(今で言う墓地でしょう)に遺体を葬り続けると、先行する世代の祖先たちの遺体がたまっていきます。すると、やがて「祖先の土地」という認識も増強されていった、ということらしいです。どうやらそういったところに、「墓」に生者を引き寄せ続ける重力みたいなものを感じる起源がありそうです。先天的に刷り込まれているのかもしれません。だから、宗教的な感覚の乏しい私ですら、定期的に墓参りはしているのかもなぁ…なんてことをぼんやりと考えた一日でした。

 

 國分功一郎氏と千葉雅也氏の対談本『言語が消滅する前に』と、オードリー若林さんの『ナナメの夕暮れ』の文庫本を最近読みました。あと文學界の今月号も。

 

f:id:sibainu_08:20211213042852j:plain

 並べるとあからさまな感じがするチョイス。

 

 『言語が〜』は、ざっくりとまとめると「人間って何をするにも生きていく根底には『言語』が不可欠だよ」って話(めちゃくちゃ要約)。あと國分氏の専門とする「中動態」についても。ちょくちょく難しい(というかややこしい)部分もありましたが、面白かったです。最近のSNSでのスタンプでのコミュニケーションに言及し、言語という面倒くさい道具を捨てて、ニュアンスだけを伝え合う方法にシフトしてきた、と分析していたところが興味深かったです。

 『ナナメの夕暮れ』は、2018年に出版された単行本の方も買っていたので、新たに書き下ろされたあとがき部分以外は既読済みです。しかし、改めて読み終わった後に単行本と見比べたとき、全く同じページの耳を折っていたのに我ながら笑いました。本を読んでいて、普通、自分に刺ささるところに耳を折ったりマークをしていくものですが、それが三年前と変わっていないというね。「何も成長しとらんやんけ…何また同じとこで刺激受けとんねん…」と愕然としましたが、もともと人間ってそういう生き物なのでしょう。どこまでいってもたりないままです。新たに追加された部分では、著者が『明日のたりないふたり』のライブ後にぶっ倒れて救急車で運ばれていったことについても。たまたま今日12日より『明日の〜』が改めて配信されるので(なんという偶然!)、それをふまえて映像を改めて観ようと思います。『明日の〜』はライブ配信のとき、食らいすぎてその後深夜にも関わらず1時間くらい散歩した思い出があります。

 文學界はとりあえず対談だけ読みました。その他の特集部分をちょこちょこ読んでいる最中。そもそも特集のテーマが面白い。