後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

死にゆく家

 一ヶ月ぶりに実家に戻った。実家といっても、今はもう誰も住んでいないわけだから何をもって「実家」なのかは疑問であるけれど。実家に戻る頻度はどんどんと少なくなっている。今は一ヶ月に1、2回程度だ。これぐらい少なくなると、家の変化にも気づきやすい。庭はあっという間に雑草が繁茂するし、家の中もホコリがたまる。前にはなかった蜘蛛の巣が家の中にできててビビったりもする。なので家に帰る度にできる限りで草を抜いたり掃除をしたりしているが、次に家に帰る時にはもとにもどっているのであまり意味はないのだろう。単なる延命処置に過ぎない。

 父が亡くなったあと、家で生活する人間が半数(2人から1人)になっただけでそのような変化は顕著に現れていたが、さらに家で生活をする人間がいなくなって、よりいっそう変化が大きくなった。家自体が緩やかに死へ向かっているように感じられる。いや、もしかしたらそれが自然な状態なのかもしれない。家という場所で人間は寝たりご飯を食べたり風呂に入ったり歩き回ったりとエネルギーを循環させているけれど、その循環のサイクルの中で家にもエネルギーを与えているのだろう。その与えられたエネルギーが、自然の状態へ向かう(朽ち果てる)のを止めているのかもしれない。動物が摂取した食べ物からエネルギーを取り出す代謝経路の中で、生じたエネルギーのロス分を体熱の維持に利用しているのと同じように。

 だから、誰も住まなくなった家というのは与えられるエネルギーがないため、あっという間に死に向かう。久しぶりに帰ると毎回、有機的な匂いが全くしなくなっていて驚く。家具は変わらず配置してあるけれど(今住んでいるところにはあまり持っていかなかった)、配置してあるだけで、そこからは生命活動の匂いがしないのだ。家具屋のモデルルームと同じだ。昔、家で金魚を飼っていたことがあるが、その水槽が金魚がいなくなってしまった途端にただのバカでかい置物としか思えなくなったあの感じに似ているかもしれない(例えが合っているかは微妙)。

 実家の周りは田や畑に囲まれていて、季節ごとに景色が移り変わる。春になると田植えにむけて田に水が張り巡らされ、夏にはぐんぐんと稲が育ち一面緑色になる。秋になると稲穂が実る。冬は稲刈りを終えた田が掘り起こされ、別の作物が作付けされるか、掘り起こした土色のまま新しい一年を迎える。農家の多い町なので、その景色の変化がそのまま人間社会の活動サイクルともいえる。その活動サイクルから、私の家はすでに切り離されてしまっているのだ。住む人間がいないということは、きっとそういうことなんだろう。これはきっと私の家にかぎったことではなく、空き家とはそういった人間の社会やエネルギー循環から切り離された場所なのだ。全国で空き家が増えていると聞くけれど、それだけ社会から切り離された場所が増えているということだ。きっと今後も増えていくことだろう。

 いつかはこの家も取り壊し更地にしなくてはならないんだけど、それを考えると憂鬱になる。でも、憂鬱になるのも人間だからなのかもしれない。すでに生命活動の匂いも無くなりつつある家だけど、そこで過去に過ごしたという記憶がそうさせているのかもしれない。そんなことを思った今日このごろ。