後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

ジャンルの価値と衰退

 どのエンタメのジャンルにも、「これは○○ではない」「~はこうあるべきである」と言う層がいる。おそらくそのジャンルを好きな人たちで、たくさんそのジャンルのものを見てきたから、自分の中で味わってきたジャンルの平均値から離れたものに対して排他的になっているのだろう。別にエンタメなんだから何を思っても自由なんだけど、その声が大きくなって他者にも届くようになると、やっぱり「ちょっとうるせぇな」と感じようになる。
 伝統芸能と呼ばれるものはその最たるもので、新参者や異分子に厳しい(ように感じる)。それが「格」というものなのかもしれないけれど、この「~とはこうであるべきだ」という固定概念は、そのジャンルそのものの衰退につながる可能性を孕んでいる。そしてこのような異分子を排除する意見は、現役で命を削ってエンタメを作り上げている人からではなく、エンタメを享受しているフォロワー側か、あるいはかつては作り上げる側だったけど現在は引退した人間から発せられているように感じる。後者の場合は、おそらく自分が現役を引退して離れてしまったからそういうことが言えるのだろう(そこで食っていく必要がないから)。前者に関しては最早意味がわからない。お前は受け取って面白がっている側じゃないか。現役でそのジャンルのエンタメを作り上げている人間は、衰退させないために試行錯誤をしている。たとえそれが「こうであるべきだ」と言われる審査から離れていたとしても。それが新たな価値の創造につながるのだろう。
 例えば私の好きな「SF」というジャンルは、「SFはこうであるべき」「これはSFではない」なんて意見がぶつけられやすいジャンルのひとつだと思う。しかしその結果、日本では暗黒期とよばれるような歴史があったのも事実だ(もしかしたら世界的にそうなのかもしれないけれど)。だけど今ではその反省を生かして(かどうかは知らないけれど)、新たな価値を生み出そうと躍起になっている。その結果「百合SF」がムーブメントの一つになったのも真新しい(しかしそれはそれで「これは百合ではない」なんて意見がぶつけられるようになっているのも事実で、「心底オタクってうるせぇなぁ」と感じる)。 いずれにせよ、そのジャンルにおける新しい価値を認められないマニアが、そのジャンルそのものを衰退させているのだ。
 なんでこんなことを思うようになったのかというと、先日行われたM-1決勝のマヂカルラブリーさんの「吊り革」ネタから広まった「あれは漫才じゃねぇぞ論争」が長引いているからだ。なんて平和な国なんだ…。自分個人としてはめちゃくちゃ面白いと感じたけれども、漫才と認めない(認めたくない)人が多いように見受けられる。個人攻撃にまでつながっていて「馬鹿なんじゃないか」とすら思う。しかし、そもそも論争を引き起こすこと自体が凄いことなのだ。そのことに気づいている人は少ない。
 例えば(例えばかりで恐縮ですが)、アガサ・クリスティの『アクロイド殺人事件』という作品があるのだけど、当時ミステリ界では「あれはミステリとしてフェアじゃない」という論争が長く続いていた。しかし、今現代では「読むべきミステリ作品」として挙げられるほどになっている。結局、新しいものってのはどのジャンルにおいても論争を巻き起こすものなのだろう。正しいとされているものがいつまでも正しいとは限らないのだ。