後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

snsとの付き合い方

 12月10日。火曜日。今日も寒い一日ですね。「寒っ!」と思って目が覚めたほどです。今年も冬の厳しさを食らっております。今日は昼間に講義が1本あっただけで、あとはずっとパソコンに向かって論文を書いたり次の講義の資料を作ったりと、相変わらず変化の少ない生活っぷりです。そういえば本当であれば今日は忘年会があったのですが、朝から頭痛が治まらず(頭痛自体はよくあるのですが)、欠席することに。まぁそういう年があってもいいでしょう。その連絡をしてようやく「そういや忘年会のシーズンなんだなぁ」と思いましたとさ。それにしても体調は悪くとも仕事だけはできますね。というか仕事しかできない、が正しいのかもしれませんが。

 現在は一人暮らしで家族もおりませんので、「ある日死ぬことになったら誰にも気づかれずに死ぬことになるな」と頭痛の中ぼんやりと思いました。そうなったら色んな人に迷惑かけてしまうなぁ、とそれだけがちょっとだけ不安要素です。まぁその時はその時で、こればかりはどうしようもないですが(できるだけその迷惑を少なくすることは生きているうちにできるかもしれませんが)。

 ここ最近、ツイッターなどのSNSに書いていることがその人のすべてである、と錯覚している方々がよく見受けられます(別にここ最近に限ったことではないですね)。特に有名人に対してが多いですが。

 人と接するときにその相手によって対応が違うってのは自然なことで(平野啓一郎氏はそれを「分人」と表現してましたが)、結局、ツイッターなんかもそれと同じで、ツイッターだからこそそういう発信・発言となる、ということは大いに有り得るわけです。それを、その文字面だけを受け取って人格否定のような地獄のようなリプライを浴びせている人がいたりします。現実生活で人と会話をしていても「この人は好きだけどこの人のこの部分だけは自分に合わないな」と思うことは普通にありうることなのにね。

 もしくは、すべてを発信するとも限らないわけで、人と共有したい気持ちもあれば「これは自分の中だけで大事にしときたいな」という気持ちもあるわけで、それが複雑に織り交ぜになっているのが人間なのだと思います。書いてないから興味関心がないわけでもないし、逆に書いているから興味があるとも限らないわけです。

 文字面だけを受け取って反応する前にもっと想像力を働かせることが必要だと思う場面をちょくちょく見受けますし、動物の鳴き声のような反射的リプライはその人自身の価値を落とすことになるのでは、とほんの少しだけ思ったりします。ほんの少しだけですが。いい具合に付き合っていきましょう。SNS

 という、2019年に書くことじゃないようなお話。