後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

暇と事件

 今となっては当事者やその周囲の人以外はすっかり忘れ去られた(ように見受けられる)ことだけども、11月の下旬に中学生が同級生を刺殺した、というショッキングな事件がありました。そして、この事件が起こった中学校というのが、私の実家からなかなか近いところにあるのです。何度かその近くを通ったこともあるし、自分が中学生の頃はそこと部活の試合をしたこともありました。そういう経緯があったので、なんとなく気になって、その後も関連したニュースを追っていたのでした。

 だけれども、結局はどこまでいっても憶測ばかりの情報しかないし、その情報に対してあーだこーだ言っているコメントを見るのも滅入ってくるだけなのでそれもやめてしまったわけです。

 「いじめがあったようだ」とか「被害者は〇〇だった」とか、そういう情報は取り上げられやすい(ネットニュースになりやすい)けれども、それが殺人に至った本当の理由なのかは、結局はわからないわけです。ですが、わからないままだとなんとなく気持ち悪いし、不気味だから、色々とそれらしい理由を作り出すのでしょう。理由や原因があれば対処する方法を考えることができる(とみんな信じている)。そうやって安心したいのでしょう。「サイコパス」なんて言葉も同じで、本来の医学的な定義はわかりませんが、世間での使われ方をみるに、「あの人はサイコパスだ」「サイコパスなら仕方ない」と安心する材料にしているのかもしれません。何を考えているかわからない人がいるのは怖いから。

 でも、はっきりと「同級生を刺したのはこういう理由です」と説明できるのか、といったら、そんなことは難しいだろうな、と思うのです。周囲の人間だけでなく、加害者本人にとっても。同級生を刺す瞬間に何を考えていたかなんて、本人にもわからないことでしょう。(真意はわかりませんが)いじめられていたとか、社会に不満があったとか、興味本位だったとか、それらは要因の一つにはなりうるかもしれませんが、では人を刺す瞬間に本当にそんなことを考えているか。もちろん、社会のルール(法律による裁き)に当てはめるためには、(言い方は悪いかもしれないど)何かしらの理由をでっち上げる必要なんでしょうけれども。

 さて、別にそんなことをわざわざ主張したいわけではありません(そもそも主張したいことなんて何もない)。ただ、なんというか、ニュースの取り上げられ方と、それに付随する人々の感想を見ると、やるせなくなります。こういった痛ましい事件も日常に加えられたちょっとしたスパイスのように消費され、そしてあっという間に忘れさられていくのでしょう。以前読んだ國分功一郎氏『暇と退屈の倫理学』には、事件は退屈な日常から区別してくれるものであって、だから人々はそれを望む、と書いてありました。たとそれが、不幸な事件でも悲惨な事件であっても、事件の内容なんてどうだってよいのです。他人の不幸は蜜の味の構造です。そんなことを考えるとむなしくなると同時に、でも、住んでいる地域で起きた事件だからといって野次馬のようにニュースを漁っていた自分も同じなんだろうな、とも思うのでした。

 あと、こういった今回の事件や、少し前にあったハロウィンの京王線での事件でもそうですが、加害者が一方的におもちゃのように叩かれるのが恐ろしいです。まるで、自分はこんな事件は起こさない、起こすはずがない、という絶対の自信みたいなものがとてつもなく恐ろしく感じるのです。たまたま私はこれまで誰の命を奪ったり傷つけたりすることはなかったですが、これからもそうでとは限らないのですし、そんな自信もありません。別に、今殺したいほど憎んでいる人間がいる、というわけではないですが、もしかしたらふとしたことがきっかけにだってなりうるのではないか、などと考えてしまうのでした。