後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

東村芽依は時空を超える

 東村芽依は時空を超える。1st写真集『見つけた』でそれは証明されてしまった。東村芽依は時間も空間も、日常と非日常の境界も、自由自在に縦横無尽に飛び越えていく。神出鬼没、猫まっしぐら。

 東村芽依を前にしては、時間の概念も空間の拡張性も意味をなさないのだ。あらゆるところに存在し、あらゆるところに存在しない。普遍性と不変性を兼ね備えた存在であり、この写真集『見つけた』がそれを裏付けている。反証は不可能。猫の如くどこからともなく現れた彼女は鮮やかなドレスもシックな黒色のドレスもキュートな水着も華麗に着こなし、優雅にティーパーティを愉しみ巨大風船と戯れ遊園地を満喫し元気に野山を駆け巡る。お腹を出したセーター(どんな格好なんだ…)でススキ野原を威風堂々と闊歩する姿に、私たちは思わず「風邪ひくんちゃうか」と心配してしまうが、健康優良児の彼女には無用だ。彼女はどこにでも現れる。もしかしたらあなたの隣にも出現するかもしれないが、それも目を離した瞬間に忽ち消えてしまう。そして私たちには「彼女は幻想だったのではないか」という淡く儚い記憶の断片だけが残されるのだ。

 なるほど「ファンタスティックな写真集」とはそういうことだったのか、と私たちは納得する他ないわけで、めいわーるどとはそういう国なのだ。そういう国だから仕方ない。おはようからお休みまで、5歳児から24歳まで。幼さと艶やかさのその両方を小さな腕いっぱいに抱えてて微笑む。そこには一切の矛盾はない。奈良と東京と九州と、あるいはそのいずれでもない場所に同時に存在し、屈託なく微笑む。そこには一切の矛盾はない。特定の次元も座標も持ち合わせず、時間も空間も凌駕した存在である。それがめいわーるどであり、それが彼女の本質なのだ。

 東村芽依は猫である。猫であるとともに人間でありアイドルであり、またうさぎでもあり苺でもあり妖精でもある。変幻自在、千姿万態。猫だましでも猫かぶりでもなく猫そのものであり、そしてどれも等しく彼女なのだから事態はより一層の困難を極める。猫も杓子もどうにもならない。

 観測者である私たちはそんな気まぐれな彼女に振り回され、現実と非現実の間を行き来することとなる。しかし、そこで私たちはふと気づくのだ。めいわーるどは彼女をとりまく空間そのものであり時間そのものであり彼女自身であり、そしてそこに私たちは存在していないことに。彼女の作る世界は彼女だけで完結する世界であって、観測者はあくまで観測者のままなのだ。入国許可は下りていない。あるいはそれすらも観測者の幻想にすぎないかもしれない。カメラのファインダー越しに笑顔を見せる彼女に対し、ページをめくる私たちはさも自身を彼女の観測者だと信じているが、その前提は脆く容易に崩れる。観測者の有無に関わらずめいわーるどは存在し彼女は存在し無邪気に微笑んでいるわけで、あるいは観測者である私たち自身が彼女が作り上げためいわーるどの内包するオブジェクトの一部である可能性は無視できなくなる。観測者と対象の関係は逆転し、シュレーディンガーの思考実験はこうして否定される。

 もしかしたら、奈良の夜の街並みを歩くシーンに、ある種の彼女感や親密感のようなものを感じるかもしれない。濡れた髪でこちら側を振り向く彼女にも、いちご狩りに夢中になる彼女の横顔にも。しかし、そのささやかで甘酸っぱくて微笑ましい発想はやはり私たちの幻想に他ならず、次の瞬間には彼女は別のめいわーるどに移動している。加速度は増加するばかりで、私たちが追いつくことは決してない。発散は更なる発散を重ね、めいわーるどは拡張しつづける。

 そして写真集を閉じるその時になってようやく私たちは気づくのだ。ほんのりと感じる寂しさの残響。それだけが、彼女の存在を想起させる確かなモノだったのかもしれないと。

 

ーーー

 以上、日向坂46東村芽依さんのファースト写真集『見つけた』の感想文を書こうとして、なんだかよくわからなくなったもの(書くのは楽しかった)。何はともあれ素晴らしく素敵な写真集だったことに違いはないのでした。はい。

 また余談であるが、めいわーるどではその影響で数字がバグる事態が頻発するらしく、発売日当日に1冊を購入したはずが家には2冊届いており、今もなお続々と届き続けている。この問題に対し当局は原因究明をすでに諦めている。めいわーるどは膨張を続けていてとどまることを知らない。