後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

鈍感の代償

 大人になるということは鈍感になるということだ。若い頃(というジジイみたいなことを書きたくはないんだけれども)は、やはり色んなことに対して感度が高かったと思う。あるいは閾値が低かったというべきか。それは、自分の世界が初めて体験することに溢れていたからだ。だから、色んなことに対して憧れを含んだキラキラした眼を持っていた。そして、若い頃というのは世界に対して恐ろしいと感じることも多い。どちらの場合も共通しているのは世界に対する感度の高さが原因だということだ。それは思春期特有のことなのかもしれないけれども、自分は後者の方が断然多かった。そしてそう思う期間も長かった(今もごくたまに感じることがあるぐらいだ)。若い頃はありもしないことを不安に感じて、考えすぎることがよくあった。自意識過剰だと一蹴されるだろう灰色の青春を過ごしてきた。そして、その不安の種が幻想にすぎないことだと理解するまでに時間がかかってしまったのも、きっと、生まれ持ったネガティブに起因するのだろう。

 しかし、そういった漠然とした不安は、大人になって、二十代を過ごしているうちに徐々に感じることが少なくなっていった。でもそれは自分が不安の種との付き合い方をコントロールできるようになっていったわけでは決してなくて、そういったものに対して鈍感になったからだ。目まぐるしく進展する社会や生活のスピードの中で、ひとつひとつのことに時間をかけて考えてはいられない。些細なひとつひとつのことに不安を感じていれば、とたんに息苦しくなってしまう。だから、生きていくための防御機構が大人になると働くようになっているのだと思う。そしてそれは、行動にも現れるようになる。知らず知らずのうちに、なるべく考えないように済む手法を選択するようになる。その方が楽だから。

 でも、そんな鈍感という強固なプロテクトに守られた世界はたしかに平和なのかもしれないけれど、からっぽでつまらない世界だ。たまにはネガティブを感じる方が心の健康にはいいのかもしれない。ポジティブの方が生きやすいのかもしれないけれども、考え過ぎは心に傷を負わせるかもしれないけれども、それでもやっぱり多少の負荷も必要なんだと思う。それは、世界を面白く生きていくための、自分の自己防衛本能に対抗するための手段だ。

 なんでこんな事を書こうと思ったかというと、何を隠そう(別に隠してはない)、今日が誕生日だったからだ。別に誕生日だからといって急に何かを決意表明するというわけでもないけれども、健やかにネガティブと付き合って生きていきたい。