後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

余裕なし人間

 6月27日。月曜日。天気予報の予想通り、バカみたいに暑かった一日。朝、ラジオをつけたときには「もう梅雨明けしたんじゃないかってぐらい暑いですね」みたいな話が聴こえていたのですが、その数時間後に本当に気象庁が梅雨明けを発表していました。おそらく今日、日本国民のうち5000万人くらいがしたであろう「バカみたいに暑いですね、どうやらもう梅雨明けみたいですねぇ…」みたいな話をもれなく私も知り合いとしていました。「6月なのにもう暑い」と「10月なのにまだ暑い」はベタ。

 昨日の日曜日には実家に戻り、家の庭や周囲の草刈りをしていたのですが、途中で意識失いそうになるくらいでした。そりゃ熱中症患者も多発しますわ。先週まで散々聞いた「節電のために冷房の使用を控えましょう」という文言も、さすがにこの状況と釣り合っていないのか「使ってない部屋の照明は消しましょう」などに変わっていました。

 また、実家に戻るタイミングがなかなかないので、そのついでにやれる事をつい色々ぶちこんでしまいます。なので今日は市役所に行ったり、来客が2件あったり、金融機関に行ったり、期日前投票に行ったり。あと講義のお仕事も。さすがに予定をぶち込みすぎたせいかヘトヘトです。そしてそれに伴って余裕がなくなっているので、些細なことにも腹を立てるようになります。一番イラっとしたのが期日前投票期日前投票は町の選挙管理委員会が運営していますが、若い職員の方は丁寧なのに年取った職員がやたら横柄で、こちらが敬語で接しているのにタメ口で話してきたりで、それが無性に悔しかったとともに「これ日本の構図そのものだな…」などと皮肉にも投票しながら思いました。「そりゃこんな町、若者は出ていってジジイだらけになるわなぁ!」と捨て台詞を、選挙会場の帰りに心の中でぶっ放していました。あくまでも心の中で。こっそりと。

 選挙では毎回、候補者のうちなるべく若い人で、現状の議席数の少ない政党に入れるようにしています。あと公約の中で、国民を釣るのが目的のようなむちゃくちゃな数字を出していないところ。そうなってくるとかなり絞られてしまうし、結局むちゃくちゃな数字を出しているところ(人)が選ばれてしまうんですがね。なので私の投票した候補者や政党が当選しているところをほとんど見たことがありません。まぁ選挙ってそういうものなのでしょう…

 そういう昨日今日でございました。

 明日は渡邉美穂さんの卒業セレモニーということで、夜はそれを配信で観る予定。いやはや、ついになのなぁ…

 

「残暑」の逆で、本格的な夏が始まる前から暑いことを指す言葉ってないのかしら

 6月25日。土曜日。今日もめたくそに暑かった一日。どうやら関東の各地で最高気温が35℃をこえていたそうで「あらまぁ大変ねぇ〜」なんて他人ごとのように思っていたところ、こちらの地方も来週は一週間まるまる35℃を超える予報で、真顔になりました。金曜日にいたっては37℃とのこと。人間の住むところじゃねぇぜ。そんな激ヤバな暑さを誇る日本の夏に、いくら節電対策を訴えてもなかなか難しいところでしょうね。人命に直結する暑さですし。あと、なんとなく節電=エアコンの使用を控えること、と刷り込まれていますが、他のモノについてはどうなのでしょうね。そりゃ、家電の中ではエアコンが消費電力が最も高いのはその通りなんでしょうけれども、例えば電気自動車のことがまるで言及されていないのは、なんというか変な感じがします。まぁ、あれだけ環境問題やエネルギー問題の解決策として推進されてきた経緯があるわけですから、なかなかそこを言いにくいのでしょうけれども…(そういえば「オール電化」もあれだけ電力会社が広めようと躍起になっていたけれども、今はだんまりだもんなぁ…)

 さて、そんなつまらない話はおいといて土曜日。といっても、パソコンで作業をするか本を読むかカルディにへんてこ調味料を買いに行っただけの一日でした。いたって平常運転。

 

 今週読んだ本の話。モンティ・ライマン『皮膚、人間のすべてを語る』、木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』、エイドリアン・マッキンティ『コールド・コールド・グラウンド』を読みました。

 

 色合いが白・黒・オレンジと鮮やかで、我ながら良いチョイス。

 『皮膚〜』はタイトルどおり皮膚についての本。人体について考えた時、中身の臓器やコンピュータである脳についてばかりが重要視されていて、それらに関する本はたくさん出ています。それらに比べると「皮膚」はあまり注目されていません。しかし、外部(物理的な意味合いだけでなく、他人との関係を考えた時も)と接しているものはまず皮膚であって、その意義について述べられています。そう考えると、内側の話だけでなく、皮膚そのものも自身のアイデンティティと密接に結びついているともいえます。この本では、健康や美容などといった著者の専門の医学の話だけにとどまらず、社会性や哲学、宗教などとも結びつけて解説されていて、なかなか面白かったです。みすず書房はこういった絶妙に知的好奇心をくすぐってくるテーマの本をよく出してくれます。欲を言うなら値段がもう2割ぐらい安いと助かるんだけどなぁ…(だいたい3~4千円のイメージ)。

 『ニック・ランド〜』は近年ちょくちょく聞くようになってきた加速主義や新反動主義について、それらのいわゆる「新しい思想」がどのような経緯で成り立ってきたかを解説した一冊。その中心人物であるピーター・ティールやニック・ランドの人となりの話が面白かったです。ぼんやりとワードだけは知っていましたが、だいぶ整理できたような、しかしよりぐちゃっとなってしまったような、そんな読後感。真っ黒な新書デザインは厨二病感丸出しでステキなのですが、中も全ページが黒で縁塗りしてあり、そのせいでやや読みづらかった(文章じゃなくてデザインとして)。

 『コールド〜』はエイドリアン・マッキンティのショーン・ダフィシリーズの一作目(現時点で6作出ている)。表紙デザインがあまりにもクールで気になっていたのですが、ようやく読みました。アイルランド抗争時代が舞台となっているのですが、残念ながら私にその知識が皆無だったので、そのへんの話についていくのはちょっとだけ大変でした(作品はめちゃくちゃ面白かった)。あと、てっきりハードボイルド小説かと思っていたら、主人公ショーン・ダフィが予想以上にタフガイだった。

 

別腹

 6月23日。木曜日。今日も朝から激烈に暑かったです。32℃。こんな暑いのに研究室はエアコン使えんのなんなん!とぶーぶー言いながら研究室に行きましたら、そんな話はなかったかのように冷房が解禁されていました。どうやら、「これだけ暑いのに冷房を禁止して、健康面を考えたらそれはどうなんだ」という話になったそうです。問題は、エアコンをこれまで光熱費うんぬんで使用を禁じていた(禁じようとしていた)課と、健康面を考えて使うべきだという課が異なっているということです。こういうの、「THE 日本って感じだなぁ」としみじみ思いました。

 夕方ごろに外に出るタイミングがあったので、そのついでに近くのちょいデカ書店へ。今日発売の雑誌BRODY 8月号と、24日が発売だけど前日から並んでいた日向坂46渡邉美穂さんの『私が私であるために』を購入しました。

 BRODYは日向坂46の二期生特集で、いつものように書籍版はすぐに売り切れてしまうでしょうから(これまでの日向坂461期生特集、そして東京ドーム公演特集がそうだった)、買いに行くタイミングがあればさっさと買ってしまうのが吉です。まぁ、電子書籍版もありますが…

 少しずつ読んでいますが、それにしても「二期生という奇跡」というのが素晴らしいキャッチコピーです。あとパラパラめくってみただけですが、写真も最高に素晴らしい。このまま行くと、BRODYは12月号ぐらいに三期生特集がくるな?と勝手に睨んでいます。

 最近は再び読む本が溜まってきているのですが、こういったアイドル雑誌買ってしまうと、今読んでいるものをほっぽり出してついそちらを読んでしまいます。別腹というか、スイーツ枠なのでしょう。あと、ここ数年でちょくちょくアイドル雑誌を購入することも増えてきたのですが、それが続いてくると、一口に「アイドル雑誌」といってもそれぞれの雑誌や出版社によって、写真の撮り方や衣装、また内容にも特徴があるのもだんだんわかってきます。味がわかってくるというか。ソムリエってこういうことなんですね(おそらく違う)。そのうち、写真をひと目見ただけで「これはBUBKA」「これはB.L.T.に見せかけて実はblt graph.の方」とかわかってくるのでしょう。ひとまず、それを目標にしようと思います。

 

オールナイトニッポンのサブスク化についてちょっとだけ思うこと

 6月20日。月曜日。激烈に暑かった一日。日中は30℃を余裕で超えていました。完全に夏じゃねぇか馬鹿か。そんなクソ暑い日だったのにも関わらず、日中市内を移動しっぱなしのヘトヘトな一日でございました。体力が持たん。夕方に研究室に戻ってからは論文を少しだけ進めたり講義用の資料を作ったりで、あっという間に夜でした。夜になっても全然涼しくならないのなぁ…

 

 今朝方、ニッポン放送オールナイトニッポンがサブスクサービスを始める、というニュースが流れてきました。

 

 

 「過去の人気番組がアーカイブで聴ける!」というドでかい見出しと共にアーカイブとして聴ける人気番組のラインナップを眺めながら、「いや、人気がそんなにだったから早々に終わった番組もいくつか並んどるやんけ!」などと意地の悪いことほんのり思ったりもしました(でもその番組を確かに聴いていて愛していた人がいただろうことは全く否定しませんが)。また逆に「なんでそのラインナップにあの番組入ってないねん!」とも思ったり。アルピーANNとかね。

 そして、リスナーも多い(多かった)オードリーANNやくりぃむしちゅーANNのアーカイブがサブスクで聴けるのは、きっとニッポン放送にとっても目玉であって、純粋に「良いなぁ」とも思いました。特にオードリーANN。古参アピールするわけではないのですが、比較的初期から聴いていました。なので、若林さんの家が「ラップ音」がするという話から自宅から放送した回(ソーセージアタックの回)とか、スペシャルウィーク史上最低の聴取率を叩き出したという噂の箱根コナキンズの回(吉留明宏ことビックスモールンのゴンちゃんが即興の歌で「ナチョス」が出てこなかった回)とか、ラジオなのに女子大生呼んでおそろいのジャンパーを作った回とか、初期の初期だけやっていて爆速で無くなったコーナー(アメフトの小部屋)とか、ツチヤタカユキ氏とのドラマティックな一連の流れとか、吉田尚記アナとの抗争とか、一宮でライブがあってその後名古屋CBCラジオから生放送することになったのに冒頭で放送が流れなかったガッツリ放送事故の回とか、大好きな回がいっぱいあるわけです(結局ド痛い古参ファンのアピールみたいになってら)。

 だけど、じゃあアーカイブのサブスクも嬉しいかというと、私としては微妙なところでもあったりします。そりゃ、オールナイトニッポンに限らず放送終了後すぐに番組がYoutube等に違法アップロードされて、しかもそれが何万回、何十万回と再生されている状況は、放送局にとっては看過できない状況であり、また金脈にもなりうるところなのでしょう(勝手に想像しているだけですが)。だから、それをまるまる放送局側が配信してしまうというのは、時代にも合った取り組みだと思います。テレビ局ではやってる手法ですしね。

 ですが、面白かった回も逆にそんなに面白くなかった回も、全部ひっくるめて二度と聴けない「儚さ」を性質に持っているのもラジオの良さであると私は思うのです。「寝落ちした夜を取り戻せ」は素敵なキャッチコピーですが、寝落ちしてしまった夜も私にとっては良い思い出だったりするのです。面白すぎて寝れなかった夜も、あんまりだったなぁという夜も、日常でクソみたいなことがあったけどラジオによって笑えた夜も、すべてがそのまま自分の生活に紐付いた良い夜だったと思うのです。なので、それが今になってすべて再生可能なコンテンツとして均一化されてしまうのは、嬉しい反面ちょっとだけ寂しくもあります。もちろんこれは私が思う美学であって、他人に強制するつもりはありませんが。

 あと、その当時のパーソナリティの年齢とか社会の価値観とか、あるいはパーソナリティとリスナーの規模だったりその時の関係性だから許されていたものが、今も同じく通じるのか、という不安も少しだけあります。例えばオードリーANNも、初期の頃にはリスナーに電話かけていて(今だったらリスナーと電話なんてまぁないでしょう)、そして女子リスナーだったらどんなパンツ履いてんのか聞いていました。あれも今だったら許されるかは微妙なところで、愛のない書き起こしサイトによって書き起こされ、なんでもかんでも問題提起したいマン(問題提起したいウーマン)に見つかっていたら、炎上しうる可能性だって持っているのです。パンツ云々の例は大したことないですが(私がそう思っているだけでそうでない可能性もあるけど)、それが番組を愛する(愛してきた)リスナーにとっては一番見たくない姿です。まぁ、わざわざ課金してまでオールナイトニッポンアーカイブを聴くような人にはそういう人はいないと思いますが…(そう願っています)。

 あと、オールナイトニッポンに限らず、芸人さんのラジオでもちょくちょく苦言を呈されている、「番組でそのタイミングだからこそ盛り上がったやりとりや印象的なワードを、こちら側(パーソナリティ側)がもう味がしなくなってやめてんのに、いつまでも擦り続けるな(ラジオ以外でも言ってくるな)」というのも、あれもYoutubeの違法アップロードが原因にあるのではないかと思うのです。あの夜にとどめておいて、その時のリスナーとパーソナリティとの共犯関係だったから良かったものが、オープンな場でいつでも再生可能なコンテンツとなってしまったからこそ生まれた問題だと思うのです。長く番組が続いていればパーソナリティも年齢が上がって価値観だって変容していくものだけど、それが時代を超えてリスナーとの関係性も超えて同一視されてしまう危険性を孕んでいるのではないか、とちょっとだけ心配してしまうのでした。

 サブスクの利便性とともに、そんなことを思いました。

 まぁ、うだうだ言いつつも結局課金している可能性は大いにあるけど…

 

鳥・民俗学・百合

 6月17〜18日。金曜日と土曜日。今週一週間、雨やら曇やらが続いていましたが、久しぶりに金曜日はよく晴れた一日でした。そうかと思っていたら土曜日は再び雨。なかなか安定しません。いずれにせよ、天候が悪ければ湿度が高く過ごしにくく、晴れたら晴れたで暑くて過ごしにくいという、しんどい季節です。にも関わらず、大学のすべての研究室や実験室のエアコンには「エアコンの使用は7月から!電気料金高騰!〇〇円削減!」みたいな注意書きと共に封がされているのでたまったもんじゃありません。本当に削減するモノはここからかぁ?などと思ってしまいます。まぁ、どこの大学もお金がないのでしょうけれども…

 一ヶ月の書籍代を1万円までとしているのですが、今月は出費がなかなかかさんでいます。もうすでに今月は2.5万円分くらい使っています。おかしいです。おそらくこれも円安のせいでしょう。私は何一つ悪くないのです。…というのは冗談にしても、本一冊の金額もほんのりと高くなっているような気がします。体感なのでちゃんとデータと照らし合わせているわけではありませんが。あと、ふと思いましたが、海外の翻訳本もこの円安の影響を受けているんでしょうかね。これも別に調べる気はありませんが疑問に感じました。

 今月の書籍代がバカ高くなっている原因はもちろんわかっていて、先日買ったカトリーナ・ファン・グラウ『鳥類のデザイン』のせいなのです(一応これも翻訳本か)。

 表紙のデザインが最高にカッコいいこの大型本がバカ高かったです。税込み6,930円なんて誰が買うねん。でもねぇ、すげぇ欲しかったんですよね。発売は昨年だったんですけど、やはりそのご機嫌なお値段のせいで手が出ませんでした。図書館に行く度にページをめくってみては「いいなぁ…」なんてため息をつく日々が続いてました。ショウウィンドウのサックスとほとんど同じ。で、ようやく今月に入って、つい、うっかり、ひょんなことから、買ってしまったわけです。 

 何がそんなに高くなっているかというと、タイトルにあるように、鳥の骨格や筋肉の構造に関する図鑑のような本なのですが、その図がすべて人(著者)によるデッサン(イラスト)であるということなのです。写真を使えばいいのに、なんて根気のいる作業なんでしょう。企画から出版に至るまで25年かかったという変態っぷりです。でも、そういう変態本(褒め言葉です)に惹かれてしまうのよねぇ…

 

 その他、今週読んだ本の話。菊地暁『民俗学入門』と百合小説アンソロジー『彼女。』を読みました。

 今週は民俗学と百合です。でもまぁ百合も民俗学みたいなところもありますし、ほとんど同じテーマの本です。ええ。

 『民俗学入門』はかなり面白かったです。「民俗学」ってわかりそうでその実体がなんなのかとらえにくいものですけれども、著者は「私達の生活そのものが民俗学である」と、そのハードルをぐっと下げてくれるのです。本文でも、はじめに紹介されるものが、女性の身につけるブラジャーの歴史ですからね(しかもちゃんと面白い)。どの章でも、人々に暮らしの中の何気ないところ・当たり前だと認識していたものから話が進んでいくのでとてもわかり易かったです。

 『彼女。』は表紙画の眼力にもってかれてつい。あと日向坂46の宮田愛萌さんがインスタグラムのストーリーでも紹介してた(ミーハー感丸出し)。著者もだいたい知っている人ばかりで、どの話も面白かったです。個人的には青崎有吾『恋澤姉妹』、斜線堂有紀『百合である値打ちもない』が特に好みだったかも。しかしミステリー作家ばかりだな…

 そういう今週でございました。

飛翔

 6月14日。火曜日。朝から夜までずっと雨の降っていた一日。私の住んでいる地方もとうとう梅雨入りしたそうです。朝から研究室へ行き、また昼間に講義のお仕事が一つだけありました。雨が降っていると移動が面倒くさいですね。晴れていれば駅まで歩いたりもするのですが、雨だとそんな気もおきません。そもそも傘さすのが下手くそ。

 そういえば、名古屋駅前のモニュメント(ロータリの真ん中にある上向きにぐるぐる尖ったアレ)が撤去されるそうですね。ネット上では「意味わからんかったやつ」「金の無駄だったやつ」などの心無いコメントもあったのですが、私はほんのりと残念に思ったのでした。別にモニュメント自体に思い入れがあるわけでもないし、そもそもあのオブジェの名前は撤去のニュースがあるまで知りませんでした(おそらく名前を知る機会は何度かあったはずだけどその度に忘れていた)。なんとなく「名駅前のぐるぐるしたやつ」としか認識しておりませんでした。ですが、いざ無くなるとなると「そっかぁ…」と思ってしまったのです(そういう人間がいることがモニュメントとしては成功だったのかもしれません)。

 名古屋駅ジェイアール名古屋タカシマヤとつながっていて、その高島屋の11階に三省堂名古屋高島屋店というかなり大きな本屋が入っていました(今はほんの少しだけ離れたところに移設しています)。で、その三省堂には一階からエレベータに乗っていくのですが、そのエレベータで昇る最中に窓から駅前のそのぐるぐるが見えるのです。私はその本屋によく通っていたので、毎回そのぐるぐるを見ながら、「上から落ちてきてぶっ刺さったら痛いやろなぁ…」なんて阿呆なことを想像していたのでした(完全にドラッグオンドラグーンのアレのイメージ)。

 また、名古屋駅の周辺は開発がガンガン進んでいて、だいたいいつも新しいビルを建設しています。なので駅前は常にどこかが工事をしているのですが、ぐるぐるモニュメントは変わらず残り続けていたのでした。変わっていく景色の中で変わらずそこにあり続けているイメージです。なので、そのぐるぐるがいよいよ撤去されるとなると、ちょっとだけ、ほんのりと、寂しくも思うのでした。

 

 

 (どちらかというとナナちゃん人形の方が不気味で苦手)

生活の印象の印象

 このブログ(のようなもの)には何度か書いたことがあるかもしれないが、インターネットの可能性を信じなくなったのはいつ頃からだっただろう。

 昔、私が高校生の頃は受験ブログがちょっとしたブームになっていて、私もやっていた。そこでは、参考書に〇〇使っただとか、今日は△△時間勉強したとか、いかにも受験ブログらしい内容もあれば、全く関係ない社会に対する青草い不満とか自虐とか、そのときに見た映画の感想とか自分がいかにモテなかった話とか、ごった煮のようになんでもかんでも書いていた。オフ会にも何度か行ったし、そこで知り合った友人もいる(ありがたいことに今でも付き合いのある人もいる)。きっと、何かを書いて発信するという行為そのものが楽しかったのだろう。当時はスマートフォンはおろか、パソコンも家になかったので携帯電話の物理ボタンでポチポチと打って毎日のように記事をあげていた。今じゃきっと無理だろう。振り返ってみれば、そんなの中毒性でもなければやってられない苦行だっただろう。だけどおそらく、当時の私は個人を発信するツールとしてインターネットにハマっていたのだと思う。

 なのでインターネット上のその類のコンテンツには一通り触れてきた。mixiもやっていたし、フェイスブックもやったし、初期のモバゲーももちろんツイッターも。前略プロフはやらなかった(当時のクラスメイトの女子が性別の欄に「パコられる方」と書いてて怖かったから)。ツイッターは2010年頃から始めて12年くらいだ。8〜9年くらいまでは楽しかったと思う。つぶやく頻度は多い方ではなかったけど、そこで知り合った友人もたくさんいる。

 だけど、いつからかしんどく感じることの方が総量として多く感じるようになった。別に私自身が炎上したことは一度もないのだけど、ツイッターを開く度に誰かが炎上していて、誰かが怒っていて、誰かが槍玉に挙げられている。その光景は眺めているだけでも、ちょっとしんどくなる。そりゃ、生きていれば何かに腹を立てたり誰かにムカつくこともあるけれどさ。でも、誰かが誰かを攻撃している光景って、見ていて気持ち良いもんじゃない。それが複数対一人となるとなおさらで、それはもはやただのリンチじゃないか。SNS(主にツイッター)では、怒りが当事者間をあっという間に超えて拡散され、その度に怒りは増幅され、揚げ足はとられ、文脈は都合よく切り取られ、内容は歪曲し改変され編集されて、もはや誰が何に対して怒っているのかわからなくなっている状況が多々見受けられる。論理の正当性はすぐに失われ、議論とは到底言えない罵詈雑言が並びだす。それがとてつもなくしんどくて、なぜだか少し悲しくもなる。いつから「正義(と信じているもの)」があれば、相手に対して何を言っても良くなったのか。「多様性」って個人攻撃の理由になりうる言葉だったっけ。「SNSってそういうものだし、あなたが向いていないだけ」と言われたらそれまでだけど、向いていなくても利用して良いのが自由で豊かであるということだろう。

 今でもツイッターはたまに見るしつぶやくけれど、そのつぶやく内容は毒にも薬にもならないものばかりになった。炎上した経験はないけれど、できるだけ誰も傷つけないように、できるだけ誤った読み方をされないように、できるだけ変なヤツに目をつけられないように、慎重に文章を編集しつぶやく。「つぶやき」なのに編集をしているのだ。そしてふと、あれほど夢中になっていたインターネットの自由ってこういうことだっけ?と疑問に思うのだ。

 おそらく、一昔前に比べたら社会はずっとクリーンになってきている。犯罪件数は減少しているし、環境問題だってあの手この手で良くしようと躍起になっている。今では想像を絶するほどの差別だって、完全に無くなってはいないかもしれないけど、社会全体で無くしていこうとしている。それは正しいことだし、明らかに、確実に、社会は優しい方向へと向かっている。そう、優しくなっているはずだ。優しくなっているはずなのに、どうしてこうも居心地悪く息苦しく感じてしまうのだろう。そしてその息苦しさはインターネットでより顕著に感じるようになった。むしろ逆に、現実世界ではその息苦しさを感じなくなった。もともとは現実世界が息苦しくて上手くいかなくて、自由を求めて入り込んだインターネットだったはずなのに、いつの間にか逆転してしまった。

 誰しもに品性高潔であることが求められるけれど、なかなかそうはいかないだろう。世界には色んな人間が住んでいて、色んなことを考え、色んなことに悩み、色んなことを吐き出して生きている。そこには社会の価値観に合わないことが含まれているかもしれない。それをすべて許容すべきだとは別に思わないけれど、いくら他人がそれを正そうとしても、そもそもが到底無理な話なのだ。多数決は効率的だけど、絶対的に正しい手法ではない。色んな矛盾を根底に孕んでいるのが人間なわけであって、矛盾を抱えたまま生きていくしかないのだ。あの頃求めていた、矛盾を吐き出せる場所はどこにいってしまったのだろう。もう無くなってしまったのか。みんなどうやって己の中の矛盾と折り合いをつけているのだろう。

 

 そんなわけで(そんなわけで?)、樋口恭介『生活の印象』を読みました。先月リリースされた『眼を開けたまま夢を見る』と同じく、電子書籍限定での出版のようです。今回のこれは、その『生活の印象』の感想文のような、感想文の皮をかぶった私自身の吐露のような、吐露の皮をかぶった感想文のような、あるいはそのどちらでもない垂れ流しのようなものです。

 最後に。画像にあるように、本作の表紙にアザミの花があしらってあり、その花言葉について本文でも触れています。花言葉は調べたらすぐ出てくるので詳しくは書きませんが、でも、アザミに似ていて丸くて美しい青色の花をつける瑠璃玉アザミの花言葉には「豊かな感情」もあるのです。なので、どうか著者の樋口氏には、健やかに、豊かな感情のままに生き続けていてほしいと、一読者にすぎない私は身勝手に願うのでした。