後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

貝のことを何も知らない私たち

 私たちは貝について何も知らない。そう、あの貝だ。味噌汁の具であり、イタリア料理にもよく登場して、浜焼きにしたら頭ぶっ飛ぶくらい美味い、あの貝のことだ。

 私達は貝のことを何も知らないのだ。「なにおぅ!」と反論が飛んでくるかもしれないけれど、じゃあどれほどの人が貝を食べている時にその食べている箇所が貝のどういう部分か説明できるだろうか。これが例えば肉や魚であれば、食べている部分がどこに当たるのか想像するのも容易だろう。もも肉はももだし、胸肉は胸肉だ。「切り身が泳いでいる」なんてジョークは別として。だけど、貝は違う。シジミやアサリを砂抜きするために塩水に漬けておくと触手みたいな管が伸びてくるけど、あれが入水管と排水管だと知っている人は少ないだろう。私は子供の頃、あれを「目」だとずっと思っていた(なんと可愛い子供だったことか)。そうなのだ。貝の体の構造を私達は知らないのだ。知らないまま、味噌汁に入れてパエリアに入れて、そして牡蠣にあたって恨んでいるのだ。これほど構造が意味不明なのにも関わらず、私達の生活にしっかり馴染んでいる食べ物は他に考えられない。なんかぐちゃぐちゃした構造を美味い美味いと言って食べているのだ。

 また、貝の用途は食べるだけではない。人類は貝を呪術にも占いにも使ってきた。それぐらい生活と密着してきたのだ。貝塚の場所を知れば、人類の歴史や生活様式を知ることができる。そうなのだ。人類の歴史を想起させるもの、それが貝なのだ。だから貝自体の構造に注目していないのだろう。人は貝を食べる時、貝自体ではなく、貝と人類の過去に思いを馳せているのだ。

 私が育った田舎は周囲が田んぼばかりで、通学路脇の用水路にはピンク色のスクミリンゴガイジャンボタニシ)の卵がいくつもへばりついていた。それを潰しながら学校から帰っていた(ろくでもない子供だ)。しかし用水路がその後きれいに工事されたせいか、あるいは農薬のおかげか、いつの間にか見かけなくなった。また、家のそばには大きな河川が通っていて、そこは河口に近かったので海水が通っていた。だから夏には潮干狩りができたのだが、ここ十年ほどの間に堤防の拡張工事のために潮干狩りは出来なくなった。シジミをたらふく食べた夏はもう二度とやって来ないだろう。そういう記憶を、貝を食べるたびに思い出すのだ。

 普段はそういったことは封をされたように忘れている。なぜならそれは生きていくのに必要のない記憶だから。それが、まさに殻が開くように思い出されるのだ。考えてみれば貝ってそもそもそういうものかもしれないな。貝殻は閉じ込めていた人間の歴史を思い出させるためのスイッチとして機能しているのだ。食用としては中身が大事で貝殻は不要なものだけど、人類の歴史を教えてくれるのは貝殻なのだ。貝に紐付いた私の記憶も、不要なはずの貝殻が思い出させてくれる。だから呪術や占いに使われるのも貝殻なのかもしれない。

 …ということを、スーパーで買ってきた冷凍のムール貝をガーリックバターで炒めながら思い出したのだった。フライパンで炒め終わったムール貝は、ゴキブリの集団みたいで心底気持ち悪かった。慌ててその記憶を殻に閉じ込めたのだった。味は普通だった。