後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

世界を分断する餃子

 餃子をよく食べる。餃子は良い。何が良いって、主役にならない所が良いのだ。あんな、ひき肉も野菜も入って香辛料で味付けをして焼いたモノが主役にならないなんて、ちょっと他に考えられない。まるで小学生までは神童と呼ばれていたのに私立の中学に行った途端、授業についていけなくなって落ちこぼれてしまった人間のような哀愁を感じてしまう。それが餃子なのだ。

 そんなわけで餃子が好きでちょくちょく食べるのだが、食べるときはだいたい某チェーン店か冷凍食品の餃子だ。何よりコストパフォーマンスが素晴らしい(店なら一皿二百円ぐらいだし、冷食は12個でそれぐらいの価格だ)。それに餃子は哀愁を増幅させてくれる。疲れた男が仕事帰りにただ食料として流し込むもの、それが餃子の本質なのだ(それにもちろんクソ美味い)。探偵とルーペ、おじいちゃんと犬、働く男と餃子。餃子はハードボイルドにうってつけの料理なのだ。

 だから、「餃子パーティ」というものが世の中に存在すると初めて知ったとき、それは嘘だと思っていたし、未だに疑っている。アイドルの餃子パーティなんて、ありえないだろうが。私のイメージする餃子のある食卓・光景と明らかに分断されているのだ。中華料理店のベトベトの床はどこに消えた。あるいは凍った餃子をフライパンに並べる時のあの手の感覚を忘れてしまったのか(尋常じゃなく冷たい)。そもそも「イチから餃子を作る」という工程がイメージできない。だってチルドにしろ冷凍にしろ、完成したものを買ってきたほうが圧倒的に安いし楽じゃないか(それにクソ美味い)。手作りの何が良いっていうのだ。そんなの嘘で塗り固められた餃子ではないか。

 しかし、「そんなのありえねぇだろ」と疑って批判だけするのは研究者として良い態度といえないことも知っている。嘘餃子だって、もしかしたら、作ってみることで新しい世界が見えてくるかもしれない。だから私は餃子を作ってみることにしたのだ(要するに初めて餃子を作った、という話です)。

 餃子を作るといっても、何も難しいことはない。ニラとキャベツをみじん切りにしてひき肉と混ぜ、味付けをして皮に包んで焼くだけだ。面倒臭さは置いといて、工程はシンプルだ。なめてもらっちゃ困るぜ。

 

 餃子の種を作るまでは余裕で(混ぜるだけだ)、あとは皮に包んでいくだけだ。おそらくそれが餃子を作る工程のうちメインイベントに当たるのだろう。しかしやっぱりどう考えても面倒くさい。冷凍餃子だったらもうすでに焼き上がって、Youtubeでも見ながら阿呆面で食べている頃合いだろう。しかも皮は30枚近くあり、チマチマと何をさせられているんだ、という気持ちになる。

 そんなわけでブーブーと文句を言いながら包み始めていったわけなのだが、いつの間にか熱中していた。自分でも驚きだ。なんだろうあの感覚は。スプーンで種を掬い、広げた皮の中央にのせ、ひだを作りながら包む。ただそれだけの過程なのに、尋常じゃない集中力を発揮していた。

 種を包んでいる自分と、包まれる種とは皮一枚で分断されているはずなのに、包む作業を進めているうちにその輪郭はぼやけ曖昧になっていく感覚があった。隔たりは加速度的に失われいき、すべてが均一化され融けていく。種を包んでいる主体であったはずの私はすでにそこにはなく、個性も時間も空間も、すべてがひとつの宇宙に吸収される。餃子の皮はアンコントールに拡大し続け、すべてを飲み込んでいく。それが宇宙の意思であるかのように。もう見分けはつかず、自己の内なる世界は反転していく。あるいは宇宙の始まりというものがあったとしたら、こういう状態だったのかもしれない。有も無も、すべてがドロドロに融けた状態のスープから始まり、やがて何かと何かを区別する隔たりができることによって、生命が存在し始めたのかもしれない。生物が生物であることの定義の一つは細胞でできていることであり、細胞とは世界を内と外で分ける膜があることだ。膜を持つことで、生物は生物として生きていくことを選んだのだ。融合という道から外れ、膜を作り孤独で生きていくことを選択した存在の成れの果てが我々の祖先だったのだ。そうか、餃子も同じことじゃないか。餃子の皮は我々の祖先の選んだ一つの武器だったのかもしれない。だからこそ、餃子という食べ物は孤独によく合うのだ。

 …ということを考えているうちにハッとして我に返った(包む餃子の皮がなくなったから)。なんだか危ないところだった。どうも餃子を作る作業にはトリップする効果があるのかもしれない。そうか、この感覚を味わうために人間はわざわざ手作りで餃子を作るんだろうし、餃子パーティなるものが存在しているんだろう。なるほど嘘じゃなかったな。面倒なのにわざわざ餃子を手作りする意味がわかった気がした。きっと、餃子パーティをする女子大生もアイドルも、あるいは夕ご飯の餃子を一緒に作る仲睦まじい親子も、その瞬間トリップしているのだろう。だからみんなそれを求めて餃子を作るのだ。

 

 わざわざ餃子を手作りする行為の答えを得て満足したし餃子もちゃんと包み終わった。あとは蒸し焼きにすれば完成だ。包み終わった餃子をフライパンに並べ、軽く熱した後、熱湯を加えて蒸し焼きにする。ある程度時間が経ったところで蓋を開ければ、キレイに焼けた餃子が、

 

 うわ気持ち悪っ。全部くっついてるし、なんだか小動物の脳みそみたいだ…(味は普通だった。可もなく不可もなし)