後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

愛のシロノワール

 シロノワールは愛でできている。愛でできているとしかいいようがないだろう。

 東海地方に住んでいるため小さい頃からコメダ珈琲が近所に何軒かあり(といっても車で行く距離だが)、よく通っている。なかでもシロノワールが一番好きだ。ときどきネットニュースで逆写真詐欺みたいな感じで取り上げられる馬鹿デカパンメニューじゃなくて、シロノワールなのだ。温かいデニッシュのパンに冷たいソフトクリームがかかっていて、そこにさらに蜂蜜をかけて食べる、コメダ珈琲の定番メニューのアレだ。何がいいって、まずその見た目が素敵だ。一見、家でも作って食べられそうで、でもギリギリそうはいかないだろうそのフォルムが素晴らしい。最近読んだ最果タヒ氏の食べ物エッセイ『もぐ^∞(もぐの無限回乗)』では小倉ノワール(パンにさらにあんこが挟んであって苺ソースもかかってる期間限定メニュー)のことが書かれていて、そこでは「「友達の実家に遊びに行ったらお茶菓子として出てきた、友達の母親オリジナルのスイーツ」感が強くて、しんみりとしてしまった」と表現されていた。言い得て妙というか、納得してしまった。

 だけど私はシンプルなシロノワールが好きなのだ。期間限定の変わり種シロノワール(フルーツソースがかかってるやつとか、チョコが乗ってるやつ)ではなくて、定番メニューの素のシロノワールが好きなのだ。期間限定のシロノワールも何度か食べたことがあるし、食べる度に「美味しい!」とは思うものの、同時に「期間限定だから美味しいと思っているだけではないのか?本当に自分は期間限定のそいつが食べたかったのか?」と不安になるのだ。シンプルシロノワールだけが、想像通りの美味しさと想像通りの満足感を提供してくれる。それがとてつもなく心地良い。

 この「想像通りの満足感」というのがたまらなく愛おしくて、無性に欲する日が時々やってくる。もはや死語となってしまった「実家のような安心感」に近い感覚だろう。何か良いことがあった日に食べればちょっとしたご褒美になり、無性に腹の立つことがあった日に食べれば「まぁ、しゃあないな」という気持ちにもさせてくれる。しかもどこの店舗でも同じ味で待っててくれている(当たり前だけど)。そういう懐の深さを兼ね備えている、それがシロノワールなのだ。こんなの愛としか言いようがないだろうが。その優しさに泣きそうにすらなる。

 だから私はシロノワールがたまらなく好きなのだ。そして想像通りの満足感を享受する場所としてコメダ珈琲は最適地だ。だからみんな朝からコメダに通っているのかもしれない。想像通りの満足感を欲する人々が集まる、それがコメダなのだ。

 そんなステキなシロノワールなのだけど、一つだけ問題(というか疑問)がある。シロノワールには飾りのような小さなチェリーがついているのだけど、あれがヤッカイなのだ。小さいから一口で食べられるわけだが、当然中には種があって、その種だけを口から取り出している自分がなんとも滑稽な気がするのだ。客観視してしまうと。あの瞬間、自分はものすごく隙だらけ(そして情けない顔をしている)だろう。でもこれはシロノワールに限ったことではなくて、例えばインスタ映えするようなカラフルパフェを食べるイケイケ女子(イケイケ女子て)も、同じようにチェリーを食べるときは種だけを口から取り出してんのだろうかと疑問に思う。そんなことを、シロノワールを食べる時に思うのだ。でも、その情けなくて滑稽な自分も受け入れようじゃないか。それが「想像通りの満足感」を享受するのに必要ならば。

 

 散々シロノワールのことを書いてきたけど、食べるのは正確にはシロノワールよりも一回り小さいミニシロノワールだ。もしも一人でシロノワールを平らげることがあったら、たぶん、その愛でおかしくなる。