後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

団欒の象徴シチュー

 シチューって不思議な料理だ。あんなに白くてドロドロしているのにしっかり味がついている(しかも美味しい!)時点でだいぶ不思議なわけだけど、今回の焦点はそこではない。「シチュー」と聞いてまず連想されるのは暖かな食卓な光景だ。シチューほど「家庭料理の代表」というラベルがべったり張り付いている料理も他にないだろう。しかしよくよく思い出してみると、私の家ではシチューが食卓に並んだことがなかった。シチューを食べていた記憶の、そのほとんどは小中学校の給食の時間である。時間が決められている無味無臭の機械的な配膳、全員が一律のメニューを食べるという最適化された日本教育。そこには暖かな家庭の雰囲気は一切感じられない。しかしそれでも、「シチュー」という料理名から紐付いて生成されるのは、やっぱり「一家団欒」のイメージなのだ。雪が降り積もるほどの寒い日の夜、お父さんは会社から帰って来てコートについた雪を振り払っていて、キッチンでは鍋のコトコト音をBGMにせわしなくお母さんが動き回っている。食卓に並ぶシチューの入りの大きな鍋には必ず花の模様が入っていて、春のパン祭りでもらったような平たい深皿に取り分け、各々が木のスプーンなんかを使って食べている。そして食卓の傍らには毛の長いでかい犬。そういうイメージが思い浮かぶのだが、これは偽記憶だということを今の私はもちろん知っている。なぜなら私の家は自営業だったし母親もいなかったし、そもそも始めに書いたようにシチューが食卓に並んだことが一切なかったから。明らかに嘘の記憶なのだ。
 なぜこんなにもシチューに「一家団欒」のイメージがつきまとっているかというと、やはりテレビCMの力だろう。シチューのルゥのCMでは、必ずといっていいほど幸せな一家が登場するし、食べる季節は冬に限定されている(考えてみれば夏に食べてもいいだろう)。それが脳内に強固なシチューのイメージとして植え付けられているのだ。一種の刷り込みともいえる。

 これは別にシチューに限った話ではない。「家庭の味」というものを想像する時、人は本当に自分の家で食べてきたものをイメージしているかと思うと、そうではないのかもしれない。勝手にメディアによって作られた「家庭の味」を自分の記憶だと認識していないだろうか。例えば、私の家では毎朝味噌汁が出ていたのだが、私はこの味噌汁が嫌いだった。正直に言って、私の家の味噌汁は美味しくなかったし、それでも毎朝出てくるから、心底うんざりしていたのだ。にもかかわらず、ご飯を残すことが許されない家庭だったから、お椀によそわれた味噌汁を親が見てないうちにこっそりと鍋に戻して逃げるように家を出ていた。その確かな記憶がある一方で、ドラマや映画やCMで見かける味噌汁の「落ち着いた和の朝食」のイメージに支配されているのも事実である。メディアによる刷り込み力の強さと、それに対する人間の脆さを実感する。
 あんなに嫌いだった味噌汁に対して幼少期にもっていた嫌悪感は、いつの間にかすっかりなくなっているのだ。子供の頃に苦手だった食べ物が成長すると大丈夫になるという、誰もが体験するだろう事象にもメディアの刷り込みが一枚噛んでいるかもしれない。寛容ではなく、鈍感になっているのだ。大人になるということは、そうやって順応していくことなのかもしれない。だからこそ、どこにでも入り込む経済主義から逃れ人間性を取り戻さなければいけない。操作された偽記憶から、真のシチューのイメージを更新しなくてはいけない。だから私はシチューを作ることにしたのだ(要するに初めてシチューを作ったという話です)。
 シチューを作るといっても難しいことは何一つない。具材はほとんどカレーと同じだ。違うのは牛乳くらいか。スーパーでシチューのルゥもたくさん並んでいることにビビってはいけない。カレーならキーマとかシーフードで味がかなり違うのでルゥのバリエーションがあることにも納得だが、シチューはシチューだろうが。だからビビってはいけない。適当にルゥを選び買って帰る。The シチューを作るのだから、具材もシンプルで良い。鶏肉、じゃがいも、玉ねぎ。それで十分なのだ。冷凍庫にブロッコリーが残っていたからそれを足しても良いだろう。カレーと同じように炒め、水を入れて煮込むだけ。大事なのはルゥのパッケージの裏側に記載されている作り方を忠実に守ることだ。メーカーを信じること。アレンジなんていらないのだ。私たちはメーカーに飼い慣らされている存在なのだから。

 パッケージ裏面の作り方通りの分量の具材を、作り方通りの時間で煮込む。火をとめてからルゥを入れるのは、温度を下げることでルゥに含まれる小麦粉(デンプン)が糊化してダマになるのを防ぐためだ。オーケー知っている。料理は科学だ。

 そして時間通りに完成し、蓋を開けて確認する。湯気とともに美味しそうなクリーミィな匂いがふんわりとキッチンに充満して…と、ここまでは良かったはずなのだが、一つだけ問題があった。ブロッコリーがすべて溶け、跡形もなく無くなっていたのだった。お玉でかき分けてもかき分けても見つからないブロッコリー。そうか、ブロッコリーってシチューに入れると無くなるんだな…(鍋にぶちこむのが早すぎただけなんでしょう)硬いはずの茎の部分は全く見つからず、頭の緑色のふさふさした部分(ちなみにあそこは蕾)はバラバラに分解されてシチューの表面に散らばっていた。その様子がコバエ取りに集まって浮いているコバエの大群そのものだった。なんて気持ち悪い見た目だろうか。とりあえずお椀によそって食べる。味は申し分ない(なぜならレシピ通りだから)。ただ何度も言うように見た目が最悪だ。ご飯にかけたらコバエのたかる三角コーナーそのものだった。本当に悔しいね。

 一家の団欒の象徴であるシチューが、ゴミ屋敷に住む孤独な人間のイメージに更新された瞬間だった。