後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

スポーツの力?

 8月1日。日曜日。今日も朝からずっと暑かった一日。すっかり夏ですね。私が住んでいるのは郊外で家の周りには水田が広がっているため、この時期になると昼間は蝉、夜はカエルが鳴きまくっています。うるせぇぞ生き物どもよ。

 連日ワイドショーではオリンピックのニュースが続いてますが、そこでは聞き飽きるくらい「スポーツ(選手)が感動を与えてくれた」と評されています。他に評価する方法はないんかってぐらい「感動」とか「スポーツの力」というワードを見かけます。もちろんメディアは視聴者が観てくるようにそう仕向けているのだと思いますが、その狙い通りか80%の人が「オリンピックを開催してよかった」と答えているアンケート結果もあるようです(タイトルだけ流し見ただけなのでどう調査したかまでは知りませんが)。「日本の選手が想像を絶するほどの努力をし、そして1年の延期を経て、世界の選手と戦って悲願のメダルを得る」というストーリィが大衆には刺さっているのでしょう。それぐらい、物語には力があります。

 しかしその一方で、その物語に全員が全員流されるのは危険性も孕んでいます。実際に、オリンピックが盛り上がっている(ように見せられている?)一方で、都内の医療体制は逼迫し、感染しても入院すらできない状況に陥っているようです(そういうニュースを見ました)。私なんかは一人暮らしなので、これってめちゃくちゃ怖い状況だな、と思いました。様々ことが便利になり豊かになった(と信じられている)この時代において、治療すら受けられずに重症化する・死に至る可能性があるなんて、数年前には想像もつかなかった事態でしょう。

 そんな時に「スポーツの力」を叫ばれたところで、状況が改善するわけではありません。別にオリンピックやそれを楽しみにしていた人を否定するつもりは全くありませんが、それはそれこれはこれ、だと思います。「コロナに打ち勝って開催に至ったオリンピック」「こういう状況だからこそスポーツで感動を」なんて安い言葉を並べられがちですが、2つの事象を無理やりくっつけてることに意味はないでしょう。「なんだかんだオリンピックやってよかったな」となんとなくの雰囲気だけで大衆が流されてしまうのはちょっと危険だな、と思うのです。

 また、逆の話になるかもしれませんが、凄惨な事故や事件が起こった際に、被害者の言葉を抽出する手法もよく使われます。大きな地震が起こった際は、建物が崩れる映像や被災した人へのインタビューが山程使われます。その悲惨さを見て視聴者は「かわいそうだな」と思うかもしれませんが、感情で状況がよくなるわけではありません(一時的な視聴率は稼げるかもしれませんが)。現実的に、ではその状況において被災地では何を必要としているのか、だとか、どういったメカニズムで災害が起こったか、を淡々と伝える方が全体としてのメリットは大きいと思います(一時的な視聴率は稼げないかもしれませんが)。

 大事なのは冷静さを持ち続けること、なのだと思います。曖昧な力を信じるのではなく。

 …といったことを連日のオリンピック関連のニュースをみながら思ったのですが、「でもよく考えたら自分はスポーツの力は信じてないけど、音楽の力とかライブを見たあとは感動したりアイドルの力を信じたりするよな?」と思い直しました。結局、自分の信じたいものは贔屓して信じてしまうのが人間なのかもしれません(急展開着地)。