後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』のこと

 『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』という本がつい先日発売された。3年ほど前に単行本が発売されていたのだが、そこに書き下ろしが加えられて文庫化されたものだ。著者は若林正恭さん。

 

f:id:sibainu_08:20201012050431j:plain

 単行本が発売となった時、私はすぐさま買いに行き、貪り読んだ。若林さんの本はこの他にも『社会人大学人見知り学部 卒業見込』と『ナナメの夕暮れ』の合計三冊があるのだけど、中でもこの『表参道のセレブ犬〜』が私は一番好きだ。

 内容は紀行エッセイ(というジャンルがあるのは知らなかった)。若林さんがキューバへ旅行に行き、そこで見たこと、体験したこと、感じたことが綴られている。なぜキューバだったのかというのは本に書いてあるので割愛するけれども、その一つは日本じゃない制度で成り立っている国、日本とは異なるシステムの中で生きている人々を見ておきたかった、とのこと。本の中では日本を指し示す概念として「新自由主義」というワードが何度も登場する。

 新自由主義ネオリベラリズム。個人の自由や市場原理の再評価。私が生まれたのは平成の初めであるが、その影響のようなものは地方にも緩やかに流入してきていた。いい高校に行きましょう、いい大学に行きましょう、いい会社に入りましょう、いいところに住みましょう、いいモノを買いましょう、その他諸々。地方で生まれ育っていたので都会に比べてそこまで露骨ではないけれども、やはり金のある家の子は都市部の私立の学校に行っていたし、塾も増える一方だった(とは言いつつ、公立高校に行くのが普通、という考えの方が強かったのは、やはり田舎だったからだろう)。きっと若林さんの育った時代、そして東京という街はもっと競争主義が露骨なんだろうな、と想像する。そして私の生まれ育った地方もそうなっていくのだろう。きっとそうやって日本全体が均さていく途中にあるのだろう。

 別に競争主義を否定したいわけでもない。それによって素晴らしい商品がどんどん開発され、便利な生活を送れるようになったのも事実だから。でも、なんというか「面倒くせぇな」と思うことが多いのもまた事実だ。「勝ち組」「負け組」「スペック」「レッテル」「マウント」「三高」「富裕層」「氷河期」「ブラック企業」「24時間戦えますか」…。 競争主義から生み出された言葉や標語は市民の尻を叩くのには使い勝手が良く、なめらかに、そして強固に生活の中に定着していった。自分の存在価値を確認するのにも、自虐するのにも、もしくは他人を値踏みするのにも便利だからだ。きっと、これら(言葉もシステムも)は競争に勝ってる人たちが創り上げたモノだからなんだろうな。そしてその価値観はネットの世界にも蔓延してくる。金という数字はアクセス数やフォロワー数に置き換わり、マウントの取り合いは今日も繰り広げられている。もしかしたら人間は元々競争したい生き物なのかもしれないな、と想像すると、より一層ぜんぶひっくるめて面倒くせぇな、と思ってしまうことがたまにある。でもその競争から降りることもできない。生まれた瞬間からヨーイドンと競争は始まり、その脚を止めることは認められていない。競争の恩恵を受けていて、競争の中で生かされているのも事実だから。

 そういうムズムズするような気持ち悪さもバッグに詰めて、若林さんは新自由主義の空気が充満していない国、キューバへと飛ぶのだ(と私は読み取りました)。

 キューバフロリダ半島の南にある島国。社会主義国キューバ革命カストロゲバラキューバのことを自分は教科書に載っていることぐらいしか知らなかった。日本とキューバの社会システムの違いなんて考えたこともなかったけれども、この本の中で若林さんはそんなキューバの文化や歴史や生活と接し、様々な事に思いを巡らせる。飛行機の中で、空港で、サラトガの屋上で、革命博物館で、ジャズバーで、革命広場で、配給場で、闘鶏を前にして、サンタマリア・ビーチで、マレコン通りで、そして日本に戻る飛行機の中で。その一つ一つの体験が、生々しくて、鮮やかで、熱を帯びている。自分が読んでいるのは本に書かれた文章だけれども、文字を通して若林さんが見たモノ、聴いた音、体験したコトが、じわじわと伝わってくる。衝撃や戸惑いや感動が血流に乗って注ぎ込まれてくる感じ。おそらく自分の感覚を大事にする人なんだろうな。誰かが言っていたじゃなくて、ガイドブックに載っていただけじゃなくて、自分がどう思うか。その感覚を尊重している人なんだろう。だから、たとえ読む側がキューバの文化や歴史や変遷のことを知らなくたってこの本は面白いのだ。

 だから、発売日に読み終わった後も数ヶ月おきに何度も読み返していた。日常の中でムカついたり凹むことがあった時や何もかもが嫌になる度に、私は一度も行ったことのないキューバを何度も巡ることができるのだ。パスポートはとっくに期限が切れて引き出しの奥に放り込んだままになっているけれども、行ったこともない国に触れることができるのだ。

 

 話は急に変わるけれども(そして個人的な話になるのだけど)、一年半ほど前、私は父を亡くした。家族が減ることなんて誰にでも生きていれば必ず起こりうることだ。けれども、父の死は私にとっては家族というシステムが崩壊することと同じであった。それは感傷的な表現でもなんでもなくて、物心がつく頃には母親がいなくて父と2人で暮らしてきたからだ。二人から一人。一人になってしまうと、さすがに「家族がいる」とは言いにくいだろう(言うつもりもないが)。とはいっても、生きている間も2人だけだったわけだし、父も私も口数の多い方でもなかったので、おそらくそもそもが静かな家族だったのだろう(他の家族形態を知らないので比べることはできないが)。

 さすがに1年半も前のことなのでそれを思い出して感傷に浸る機会も減っていったけども、そうじゃなくて、「家族ってなんだろうな」と考える機会が増えるようになった。家族。人間は生まれながらにして様々な集団に属していて、その最初の単位が家族だろう。家族があって、地域があって、群衆があって、国がある。その最初の共同体。血の繋がった関係。まぁ、別に答えを求めているわけでもないのでぼんやりとだけど。

 なんでいきなりこんなことを書き始めたかというと、この『表参道のセレブ犬〜』に家族の話が出てくるからだ。家族。競争の原理の中で、絶対的な味方。本の中で若林さんは亡くなった親父さんのことを綴っている。親父さんとの対話のシーンは特に印象的で、シャープで、初めて読んだとき(たしか初出はダ・ヴィンチの連載だったと記憶している)は耳鳴りが響くように、しばらく脳に残り続けた。そして1年半前、自分が父親を亡くしたときも、そのシーンが何度も何度も頭の中でリフレインしていた。葬儀屋と葬式の打ち合わせをした際、式のボリュームが値段によってあからさまに変わることの説明を受けた時には、本に書いてあった「火葬場のランクにも経済が入り込んでいる」の話とまるっきり同じで笑ってしまった(今考えたら不謹慎な話だな)。

 今となっても、本の中のその話は脳に響き続けている。そして文庫本になって新たに追加されたモンゴルの話も印象的だった。そこにも家族の話が出てくる(というか主題といってもいいだろう)。ゲルに住む家族を見て、接して、結婚願望が体の中に湧いてくるのを感じた、と綴っているのがとにかく印象的だった(今は若林さんも結婚されているが)。なぜそんなに家族の話に引っ張られているのかと考えると、これまでちゃんと向き合ったことはなかったが、もしかしたら自分の中にも共同体への憧れがあるのかもしれないからなんだろうな。そんなことを読みながら感じた。まぁだからといって今すぐどうこうできるもんでもないのだけれども。でもまぁそれでもいいか。ずっと考えながら生きていこう。あとパスポートの更新もしよう。今はご時世的に厳しいかもしれないけれども、きっと、いつか。

 そんな『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』の感想文のようなものでした。あと最後に。文庫本に追加されたDJ松永さんの解説(という場を借りた手紙)と同じ結論になるかもしれないけれども、若林さん、どうか、健康でいてください。