後ろ向きには最適の日々

雑駁なあれこれ

ツイッターから遠ざかった理由

 10年近く使っていたツイッターのアカウントを6月から見なくなった。もう2 ヶ月ほどになる。もともと頻繁に活用する方ではなかったけど、一切使わなくなった(アカウントを消してはないけど)。今のところそれで困ることは特にないのだが、この結論に至ったのには色んな要因がある。

 まず、あまりにも出どころ不明瞭な情報が飛び交っていて、それが目に入るのがダルかったのだ。ツイッターは性質上、情報の正確さよりもセンセーショナルさばかりが注目される。例えば、動物の可愛い画像や動画などは一日に何回もRTで回ってくるのだが、元のアカウントを見てみると、明らかに無断転載アカウントだったりする。それが何万人にRTされていて、しかも放送作家を生業にしている方など著作権等の取り扱いにはより注意すべき立場にある人が平気でRTしている場合もあって、ちょっと、大丈夫なのかと思う。いつから可愛い動物は無断転載しても良くなったのだろう。また、そういった動物の画像・動画以外にも、自分の意見を補強するため(あるいは逆に批判するため)に平然と出版物の中身が使われている場合もある(許可を取っている場合を除いて明らかな法律違反なのでは?)。ここまでくると、この世のすべての情報は誰かの主張のための踏み台にされているような感覚に陥る。テレビの内容が切り取られ編集され誰かの踏み台にされ、ラジオで話した与太話も切り取られ編集され誰かの踏み台にされ、何十年も前に本で書かれた内容が今の著者のスタンスを無視して切り取られ編集され誰かの踏み台になっていく。一度編集されてしまうと、それを見た別の誰かにとっては、その編集された内容がすべてだと受け取られまた批判されていく。後出しじゃんけんは止まらない。これがツイッターから遠ざかった一番の原因だろうと思う。昔からそういった風潮はあったのだけど、特にここ最近はひどく、もう(自分が利用するには)潮時だろうなと感じた。

 2つ目に、これもツイッターの性質上仕方のないことだけれども、短い文字数制限の中で何かの主張をする場合、どうしても強い意見となる。正論も批判も、導入部分や微妙なニュアンスなどは排除され、核の部分だけが抽出されて吐き出される。なのでどうしても当たりが強くなる。そして強い意見はRT数が増幅されることによって、大衆の意見として見なされていく。これはなかなか怖いことだ。今日も誰かが誰かに怒ってんなぁ、と毎日感じるし、いつの間にかトゲトゲだらけの世の中になっている感覚になるのだ。トゲトゲ意見に対して、賛同できる場合もあれば「いやちょっと違うのでは?」と思うこともあるけれど、自分はそれほど自分の意見が絶対的に正しいとも思っていないので、やっぱり相性が悪い。自分は情報や経験してきた事によって意見が180度変わることなんてよくある。そもそも人間ってのは間違える生き物だと思うし、間違えたと感じたならばその度に修正していけば良いだけなのに、間違えを許さない雰囲気すら感じられる(炎上のほとんどがこれに当てはまると思う)。「軸がぶれている」「手のひら返しだ」と言われるかもしれないけれど、その通りだ。軸なんて不安定だから色んな意見を吟味・統合することでバランスをとることができるわけだし、手のひらが返せるから自分と合わない人とでも握手をすることができるのだ(なんか上手いこと言えた気がする)。

 そしてここまでは受け取る側としてだったけど、3つ目は発信する側として。日常生活の中にある様々な感じたこと・気になったことについて、それを短い文章で書き出すのはもったいないな、と感じるようになった。「なぜそう思うのか」「どこが面白いのか」の理由を、時間をかけてあれこれ考えるのが自分には合っている気がするのだ。これは年をとってより強くそう思うようになった。しかしツイッターで感じたことをすぐに短い文章で呟いてしまうと、それはまるで句点を打ったかのように、以降、何も触れなくなる(一区切りついちゃっているから)。そして、その内容を誰かに伝えようとする場合でも、導入も微妙なニュアンスも阿呆な与太話も織り交ぜて腰を据えて長く書けるブログのほうが向いているのだろう(だから実はブログ歴もそこそこ長かったりする)。また、自分の意思関係なく目に入ってくるツイッターよりも、読むのに多少は能動的なプロセスが必要となるブログの方が、申し訳無さを感じなくて済む。どれだけ長くなっても気にしないで良いのだ(文字数6000弱にも及ぶ日向坂46のライブの感想だって気兼ねなく書ける)。

 そんなわけで、長年使っていたツイッターのアカウントから離れてしまった。きっとこれからも変わらないだろう。ではもうツイッターを一切しないかというと、実は別のアカウントを最近作った(最後の最後でどんでん返しだ)。といっても、そっちは好きなアーティストや番組、芸人さんや作家さんだけをフォローしていて、情報を受け取るのが主な使い方だ(やはり情報発表の速度はツイッターが一番なのよねぇ…)。そこでは自分からは何の主張もしない。たまにラジオの実況みたいなことはするけれど、ほとんど動物の鳴き声と同じだ。そこに意味はない。結局そういう使い方が正しいのかもしれないな、鳴き声アカウント。動物園に行った時でも動物の鳴き声は気にならない。しかし、もし動物の言葉が理解できるようになったら、きっと煩くて仕方ないだろう。ガオー。